古書店の静かさと暑さの見事な切取り。季語が上手いと思った。朱夏は「目眩く夏は穂麦の朱きより(めくるめく夏は穂麦のあかきより)」からきているらしく<訳・目がくらむような夏の日々は麦の穂の朱い色からはじまる)>がその理由の一つとして揚げられていた。古代中国の五行説という思想によるらしい。その説では春に「青」、夏に「朱」、秋に「白」、冬に「玄」を当てるようだ。五つ目は「黄」であるらしいが、夏の「朱」は納得だが、その他にはあまり納得がいかないが・・・。何だか扇子を使う人が見えるような、麻のスーツを着た紳士が、何万円もする古書に手を伸ばしているような。エアコンのない昔のままの古書店の本の匂いがするような句でした。(博子)
こけし工人の実演があって、粗挽きしたこけしを触らせてもらったのでしょうね。「微熱」に実感がり、その感動が「発見」の句になったのでしょう。配された「つばめの子」は巣立つのにはまだまだ早い育ち具合かと、こけしの形を成していてもまだ手のかかる工程のあることを感じさせます。こけしは、粗挽きのあと、磨き(サンドペーパー、とくさなどで磨く)。さし込み、はめ込み(胴や頭をたたき込む)。描彩(顔や胴の絵柄を描く)。仕上げ(仕上げにロウをひく)。で、やっと出来上がりになります。子供の頃、祖母の湯治(鳴子)に何度も連れていかれた。子供にとって湯治は退屈な二週間だったが、こけし店の窓越しにくるくると、次々と、削られるこけしは面白かった。色を付けていた日もあった。毎日行くので「こけしが好きなの」「どこから来たの」「幾つ」と飴を手に握らせながら訊いたのは職人さんの奥様だったのでしょうね。懐かしい句でもありました。(博子)
梅雨の中休み。出掛けてみようかと鏡に向かう。<鏡よ鏡よ鏡さん・・・>、このセリフが出てくる童話と言えば「白雪姫」ですが、鏡に問うているのではなく、鏡の中の魔女に問いかけている。その「魔女」は、映っている作者以外にあり得ない、何とも大胆な句である。「出掛けるならお化粧しないと・・・」と魔女は言い。「でも、面倒くさい」と思う本体が居る。そんな感じだろうか。私は最近極力鏡を見ない。鏡の中の自分に納得がいかないので見たくない。最近「やせたね」とよく言われる。気を使ってそう言ってくれるのだ。本当は「やつれたね」と言いたいのだと思う。店番をしなければならないので一応五分メークをする。それは私の仕事をする為の武装に近い。休日の私の鏡には「幽霊」が映る。母の介護の為に更に忙しくなったのに、母は「幽霊みたいな顔して、鏡を見て見なさい」と言う。そんな暇はない。きりの無い家事をこなさなければならない。作者は、梅雨晴間の気持ちよさを感じて出掛けたら良いですね。菖蒲も紫陽花も、見頃なのでは・・・。(博子)
遠方上空に沸き立つ雲。その手前に潮を吹くシャチを置く。白と黒の対比に「潮吹く」と動きを入れ、臨場感を出している。私は水族館でしか見た事しかないが、北海道・知床の観光船に乗るとクジラやイルカやシャチに至近距離で会えるそうだ。掲句は浜とか港からシャチを見ているのだろう。雄の背びれは最大で2メートルにも達するものがあるというから陸からでもシャチと分かるのかもしれない。「海の王者」と言われるシャチのシャープな線と、もくもくの雲。触れないけれど質感の違いも感じます。(博子)
鬱陶しい梅雨が明けて晴々とした気持ちに負けない、太く黒々とした「一行書」が何とも力強く配されている。私には馴染みのない一行書だが、たぶん字数の少ない物であるのだろう。作者は伊達政宗の研究者。政宗の一行書かと思ったがネットで見つけた「十暑岷山葛」の手蹟は墨たっぷりの感じではなかった。各地の講演に招かれたり、研究のために歴史資料館を訪れたさいに目にしたものだったのだろうか。それはさておき、梅雨明けとほぼ時を同じくして蝉が一斉に鳴き出し、いよいよ本格的な夏が来る。身構える感じが読み取れる気がしました。(博子)