「滝」の俳句~私の心に見えたもの

220728 佐々木博子(「滝」瀬音集・渓流集・瀑声集 推薦作品より)

初明りシルクロードの末に居る 赤間 学

2019-03-28 04:24:34 | 日記
元日のほのぼのと明るくさし始めた曙光に「シルクロード」というエキゾチックな響きが大景を広げ「末に居る」と景を絞って作者の立ち位置に絞り込む。あたかもシルクロードを辿る旅の終着点に初明かりを見たような詠まれ方に練達を思った。改めて俳句の自由さを思った。国と国、都市と都市を結ぶため、必然的に道は展開していったシルクロードの終点は、西安からローマまでだとか、シルクロードの東端である日本まで含めるだとか、シリアまでとか色々な考え方があり定義が曖昧であることを逆手に取り、自分の今いるところを「末」とした大胆さに脱帽する。(博子)

福寿草團十郎のにらみかな 鈴木幸子

2019-03-26 19:37:28 | 日記
福寿草は、小さいけれど、ふくよかな豊かな感じのする黄色い花。その黄金色がいかにもめでたさを感じさせるところから元日草と呼ばれ、福と長寿をもたらすとして福寿草となったそうですが、「團十郎のにらみ」の連想に歌舞伎をよく知らない私はどう呼応を導き出したのかとワクワクした。歌舞伎の表現として『にらみ』を思うことは容易だが「團十郎」の特定はなぜ?、と思ったが、そもそもそこが間違っていた。歌舞伎役者は全員にらみをすると思っていたが『にらみ』は、代々、市川團十郎家(成田屋)のみに伝わっている伝統的な所作なので、他の屋号の役者は当然、にらみを披露することはなく、現在は、市川海老蔵のみができる見得なのだそうだ。江戸時代は、「團十郎に睨んでもらえば、一年間無病息災で過ごせる」ともいわれたほどで、にらみを利かせる團十郎を前に、ありがたさで手を合わせる人々もいたそうで、なるほどの取り合わせです。来年からは、福寿草をもっとありがたく愛でることに致しましょう。(博子)

絵双六光源氏に来て止まる 谷口加代

2019-03-24 05:15:34 | 日記
『ああ、なんか、「上り」になったより嬉しいかも』。六五歳の私の乙女心がそんな声をあげている。光り輝くばかりの美貌と吐出した才能に恵まれ、一時の左遷もありましたが、出世街道を邁進してゆく光源氏。日本史をベースにした「学ぶ双六」のような物でしょうか。絵双六の源としての五十四帖源氏壽語六(ごじゅうよんじょうげんじすごろく)を思わせるべく「源氏」の文字を意図して使ったのかもしれません。作者の遊び心が透ける楽しい句でした。(博子)

罠猟師匂ひ残さぬやう歩く 堀籠政彦

2019-03-22 03:12:17 | 日記
発見の句です。私の暮らす所も猪の被害が出ており駆除の対象になっています。猟師免許を持っている同級生が罠免許を取らされたが何かコツがあるらしくまだ一頭も捕獲出来ていないと言っていました。原因はこの匂いなのかも知れませんね。私の中で「罠」は「檻」のイメージでしたが、調べて見ると「箱罠」「囲い罠」「括り罠」があって、どの罠も猪は人間のにおいに敏感なので回避は避けられないようです。「匂ひ残さぬやう歩く」は、単に歩き方ではなく、それほどに気を使って罠を掛ける技術が必要という事なのでしょう。雨の降った次の日にはよく罠にかかるそうで、雨で匂いが流れることと、設置のために踏み荒らした跡が馴染んで違和感がなくなることに大いに関係がありそうです。捕獲した猪は食べていいのだそうですよ。(博子)

初明かり被災屋敷の鬼瓦 佐々木經義

2019-03-19 04:46:53 | 日記
年が改まる。気持ちの改まる印象深い曙光です。そして、身の引き締まる寒さの中で、厳粛にして心にしみる光です。厄除けとして設置される鬼瓦は、寺院は勿論、一般家屋など比較的古い和式建築に多く見られ、「被災屋敷」は歴史的な建築物だと思われる。東日本大震災から八年。それに限らず幾多の自然災害に見舞われた平成期最後の初明かりでもあることを鬼瓦が防ぎ切れなかった災難と共に思われる。そして、この鬼瓦は被災当時のままになっているとも、再建されたとも読めるのではないだろうか。その余白は読み手の心のありようによって描く景が違って、それでいい。まだ辛く思い出されるあの日・・・。(博子)