子規の月給に興味がそそられる。自らの墓石に「月給四十
円」と刻んでいるそうだ。子規は、母と妹と三人での生活を、
何とかやりくりできる額に昇給し、勤めていた日本新聞社に
対して感謝の念を抱いていたことが、明治31年7月に碧梧桐の
兄河東可全にあてて書いた手紙から推測されるそうです。
明治期の1円は、今のお金にすると約1万円。ちなみに、野
口英世の伝染病研究所見習助手の月俸は12円。英世の恩師の
小林先生も俸給12円でしたから、子規の月給は随分高かった
ことになります。
暮らしは楽になったが病気は重くなっていくばかり。しか
し、その枕もとに人が絶えることはなく、亡くなる二日前ま
で俳句の勉強会が彼のまわりで開かれていたといいます。正
に、さっきまであった「秋の虹」のはかなささのように、逝
ってしまった子規が思われました。(H)
円」と刻んでいるそうだ。子規は、母と妹と三人での生活を、
何とかやりくりできる額に昇給し、勤めていた日本新聞社に
対して感謝の念を抱いていたことが、明治31年7月に碧梧桐の
兄河東可全にあてて書いた手紙から推測されるそうです。
明治期の1円は、今のお金にすると約1万円。ちなみに、野
口英世の伝染病研究所見習助手の月俸は12円。英世の恩師の
小林先生も俸給12円でしたから、子規の月給は随分高かった
ことになります。
暮らしは楽になったが病気は重くなっていくばかり。しか
し、その枕もとに人が絶えることはなく、亡くなる二日前ま
で俳句の勉強会が彼のまわりで開かれていたといいます。正
に、さっきまであった「秋の虹」のはかなささのように、逝
ってしまった子規が思われました。(H)