「滝」の俳句~私の心に見えたもの

220728 佐々木博子(「滝」瀬音集・渓流集・瀑声集 推薦作品より)

梵鐘の余韻を追うて花吹雪 酒井恍山 「滝」5月号<瀬音集>

2015-05-28 03:31:44 | 日記
 梵鐘の余韻のなか無限に降り続くかのように花吹雪。この
光景を見続けているうち、残響と花吹雪が次々と現実世界か
ら遊離していくように見えた。超現実的なものを主題として
いるのではなく、平凡な景色を描いているのだが、そのなか
で対象が変容していく感覚を得たのだ。作者は無意識に、無
限に続く現実を矯正し変成するため、アンドレ・ブルトンの
言う「夢見る力」という想像力を駆動させたわけである。こ
の句、その不思議な感覚も濃厚な詩性も全て中七の「追うて」
一語で組み上げられている。(石母田星人)

魚は氷に上る両手の鉄鎖 阿部風々子 「滝」5月号<瀬音集>

2015-05-27 04:08:00 | 日記
 掲句の次に〈蕗の薹北の牢屋の赤煉瓦〉が並ぶ。「博物館網
走監獄」での吟行だろうか。受刑者にとって「網走送り」は
「生きて帰れない」という意味をもっていた。この監獄では、
主に未開地開墾などの過酷な労働をさせられたという。立春
を過ぎ陽射しも明るさを増し、魚が氷の上に躍り出る季節。
極寒の地の受刑者にも優しげに春が訪れる。「両手の鉄鎖」の
措辞に受刑者の深いかなしみが乗る。(石母田星人)

メビウスの帯をころがる春の雷 菅原鬨也 「滝」5月号<飛沫抄>

2015-05-26 04:47:17 | 日記
 細長い帯を一度ねじって両端を貼り合わせたときに、表裏
の区別ができない連続面となる輪の形状。これがメビウスの
帯。この句のメビウスの帯を、無限の繰り返しの喩と捉えれ
ば、中七の「ころがる」ものは、季節の巡りや地球そのもの
となるだろう。言葉は根源的に既に比喩であることを避けら
れないものだが、もっとも比喩性の薄い言葉は自然科学の言
語である。データの数字や固有名詞、メビウスの帯も然り。
メビウスの帯の幾何学的性質を喩として用いることには相当
無理がある。ではこの句の帯をころがってゆくものは一体何
だろう。春の遠雷の音だろうか、それとも自分だろうか。何
であろうとそれはきっと、これから次元を飛び越えるはずだ。
地球空間は三次元、それに時間軸を加えたものが四次元。地
球レベルでは三次元座標で十分理解できる。だが宇宙レベル
では四次元の座標が必要になる。地上の三次元世界にいて、
四次元という多次元座標をどう表現すべきか。その手がかり
を与えてくれるのがメビウスの帯。二次元の世界に住んでい
ても、メビウスの帯に乗ってころがればその平面の裏側に行
ける。表裏の関係は、平面を超えた概念であるとするならば、
メビウスの帯は二次元から三次元への橋となる。メビウスの
帯は、宇宙の構造を解明するひとつの手段として提案された
多次元への移動装置なのだ。主体的に帯に乗ってころがるも
のは、次元を超えようとするもの、つまり「光」以外にはあ
り得ない。(石母田星人)

真ん中を馬逃げて行く蜃気楼 石母田星人 「滝」5月号<瀬音集>

2015-05-21 03:59:30 | 日記
 富山湾の魚津海岸で船舶が海上に浮き上がって見える蜃
気楼が日本では有名である。蜃気楼はこの句のように普段
ないことを色々想像することができる。若駒が自由を求め
て馬柵を飛び越え逃げたのかも。しかも端の方ではなく堂
々と真ん中を逃げる馬。何から逃げようとしたのかは分か
らないが、現実には滅多にないことを句にしてしまう星人
さんの力と技法に感心した。(八島 敏)

青嵐やプロレスが来る過疎の町 成田一子 「滝」5月号<瀬音集>

2015-05-20 05:29:56 | 日記
私の近くの店にプロレスのポスターを見かけた。作者の
大好きなプロレス。母も好きで、近くの白黒テレビのある
家に毎週私たちを連れて行った。英雄はもちろん力道山。
今は、プロレスをテレビで見ることはないが、細々と地方
周りをしているプロレス。なんとか生き延びているのに対
して過疎の町は間違いなく消滅する。そしてプロレスも、
知恵を出し合って、解決策を考えないと。この句は指摘し
ているように思う。青嵐が効いている句でもある。(八島 敏)