「滝」の俳句~私の心に見えたもの

220728 佐々木博子(「滝」瀬音集・渓流集・瀑声集 推薦作品より)

ふらここや人に内耳といふ迷路 成田一子

2017-04-29 08:28:31 | 日記
 掲句に、私が初めて詠んだぶらんこの句を思い出した。「ぶらんこ・少年・飛行機」の組合せだった。作者の父である前主宰が「もっと遠くの、見えないものを見てみろ」と、アドバイスを下さり、「少年に光るパルサー半仙戯 博子」と推敲したら、宇宙の灯台を持ち出したことを面白がって下さった。新主宰の句は、見えない「迷路のような内耳」である。頭蓋骨の中にあり、複雑な形の腔の中に、聴覚や平衡覚に関与する装置をもつ。「ふらここ」の語感から、乗り物酔いを思わせる句だが、この体感は、不安や恐怖を感じた時に、これに対抗するために分泌されるストレスホルモンよるもの。大人が、一人になりたくて乗ったぶらんこに、父の懇願で、滝俳句会を託された作者の内なる重圧との戦いを思わせる句でもあると思った。頑張る新主宰に、只々感謝である。一生懸命ついて行きたいと思う。(博子)


魚は氷に上りて夫の農事メモ 畑中伴子

2017-04-21 04:28:06 | 日記
 ご主人は「魚は氷に上り」に春を感じて「そろそろ○○しなくちゃな」と農事メモ開く、作者はそんなご主人を見て春を感じている。ご夫婦として過ごしてきた年月分のノートは何冊目でしょう。コーヒーの香の中で、カレンダーとにらめっこしながら農作業の相談している睦まじい姿が見えるようです。(博子)

来し方を埋めつくしたるクローバー 平川みどり

2017-04-19 05:45:04 | 日記
 苜蓿の花」の季語の傍題がたくさんある中で、花ではなく、葉の方に重きのあるクローバーを選んだ句である。「来し方」と言う過去の時間の緑一色が、一面白に化す思い描きを、記さずに思わせて来るのである。そして、時間は更に逆走し、幼い頃の思い出とリンクする。花の中に座り込んで、母の眼差しを感じながら一心に花を編んだ頃に・・・。

「かげろふの中を歩める犀の角 平川みどり」
ああ、犀。でもサバンナの陽炎ではない。
「わが犀の白梅の夜を盲ひたる 菅原鬨也」
「角をもつゆゑの孤独や秋の犀 菅原鬨也」
「わが犀は二百里の果濁酒 菅原鬨也」
こんな句と一緒に、亡くなられた鬨也先生を思いました。 (博子)

七十年薄氷に佇つ平和かな 山本峰子

2017-04-18 05:49:50 | 日記
この七十年の平和は日本を指すのかと、対にある戦争が頭を過りもするが、作者の生きてきた年月かと思い直した。春先は温かさを感じたかと思うと、寒さが戻り、うっすらと氷が張っていたりする。そんな氷に佇んでいては、いや、佇む間もなく割れてしまうがそんなことは百も承知で詠まれている。それは危ういと言う事と紙一重に平和がある。あった。と、言う事だろう。平和を乱すのは必ずしも戦争ではなく、自然災害であったり、人の心の行き違いだったりするが、今の不安な状態を読んだとすれば、健康面だろうか。その危うさの表現を「薄氷に佇つ平和」とは、つくづく『俳人なんだなぁ』と尊敬する。(博子)


老らくの恋とや魚は氷に上る 今野紀美子

2017-04-17 07:18:36 | 日記
 何とまあ!。と、思わず目を丸くする作者だが、それも春の兆しの季語と合わせられれば、跳ねてキラキラと春光を受ける魚と同様、眩しく感じられてもいるのだろう。
 昭和23年、当時68歳の歌人川田順が弟子と恋愛し、家出し、「墓場に近き老いらくの、恋は怖るる何ものもなし」と詠んだことから生まれた語は、ときめいてもみたいが、少し恐いような気もする。(博子)