行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

智恵

2014年06月10日 | 禅の心
○現代は情報であふれかえっておる。
○知識ばかり増えて、頭が大きゅうなっておるが、心が成長しておるとは限らん。
○知識を増やすだけでのうて、智恵も磨かんとな。
○智恵というのは、物事の道理を考え、物事の本質をつかむ力じゃ。
○智恵は般若の智恵じゃ。
○「知」の下にお日様がついて「智」じゃ。
○「智」は光じゃ。
○智恵は自分の外ではなく自分の内側を照らす光じゃ。

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東西の善悪観

2014年06月06日 | 禅の心
仏教とキリスト教の相違点を考えてみましょう。

  キリスト教では、この宇宙は天使と悪魔の対立によってできていると考えています。つまり、白黒をはっきりさせるのがキリスト教文化であり、西洋文化なのです。

  それに対して仏教では鬼が仏の化身であったり、悪人こそ救われると説いたり、白黒をはっきりさせるのではなく、善悪が混沌としているのがこの世の中であると考えています。



渋柿の 渋そのままの 甘さかな



というように、煩悩がそのまま悟りになる、煩悩あっての悟りだと説くのが仏教なのです。


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「罪」について

2014年06月03日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
 親鸞聖人の思想は悪について触れているところが多いです。罪と言えば、キリスト教の「罪」を想像しますが、親鸞聖人の悪人のとらえ方とキリスト教の罪については似ているところと違うところがあります。

 親鸞聖人は、自分の中の悪を自覚している人を「悪人」と呼んでいて、自分は悪いことなどしていないといういわゆる偽善者を「善人」と呼んでいます。

 キリスト教では、アダムとイブがエデンの園で禁断の果実を食べて、善悪の判断を身につけてしまったことが、罪のもとで原罪と呼んでいます。神の意志から離れてしまったため、命のエネルギーで満たされなくなってしまったのです。したがって、人間は天国へ行けないことになってしまったのです。しかし、神の子のイエスが十字架の上で死んだことにより、神の命のエネルギーを人々に分け与えることによって救われるというのがキリスト教の考え方の根本なのです。

 南無阿弥陀仏の名号を唱えれば誰でも救われて極楽往生できるというのと、キリスト教徒になってイエスの十字架の意味を信じれば、罪が軽くなって、救われて天国に行けるというのはとてもよく似ています。

 親鸞聖人とキリスト教の救いに対する考え方の大きな違いは、誰でも南無阿弥陀仏と唱えるだけで救われるのに対して、キリスト教徒にならなければ救われないというように、誰でもか入会しないといけないのかという違いがあります。

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