行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

「罪」について

2014年06月03日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
 親鸞聖人の思想は悪について触れているところが多いです。罪と言えば、キリスト教の「罪」を想像しますが、親鸞聖人の悪人のとらえ方とキリスト教の罪については似ているところと違うところがあります。

 親鸞聖人は、自分の中の悪を自覚している人を「悪人」と呼んでいて、自分は悪いことなどしていないといういわゆる偽善者を「善人」と呼んでいます。

 キリスト教では、アダムとイブがエデンの園で禁断の果実を食べて、善悪の判断を身につけてしまったことが、罪のもとで原罪と呼んでいます。神の意志から離れてしまったため、命のエネルギーで満たされなくなってしまったのです。したがって、人間は天国へ行けないことになってしまったのです。しかし、神の子のイエスが十字架の上で死んだことにより、神の命のエネルギーを人々に分け与えることによって救われるというのがキリスト教の考え方の根本なのです。

 南無阿弥陀仏の名号を唱えれば誰でも救われて極楽往生できるというのと、キリスト教徒になってイエスの十字架の意味を信じれば、罪が軽くなって、救われて天国に行けるというのはとてもよく似ています。

 親鸞聖人とキリスト教の救いに対する考え方の大きな違いは、誰でも南無阿弥陀仏と唱えるだけで救われるのに対して、キリスト教徒にならなければ救われないというように、誰でもか入会しないといけないのかという違いがあります。

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