行雲流水

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今日という日を大切に

2013年09月06日 | 禅の心
白隠禅師の師である正受老人(道鏡慧端)の「一日暮らし」という文章です。

古人之日、我俗二謂ルー日暮シト云ヲ覚悟セシヨリ、精神甚ダ健ニシテ養ヒニ術ヲ得タ
 リ、如何トナレバ、一日ハー月ノ始メ、一年之始ハ千歳万歳ノ始ナレバ、一日暮ス程之勤ヲナセバ其ノ日過タリ、夫レ明日ドウシテト又相ヒ手モナキコトヲ苦ニシテ、然モ明日二呑マレ、其日ハ怠り勝ニナリ、終二又明日二至レバ又明日ノエ夫スレバ、全体持越テ、今日ヲ無キモノニ思フ故ニ、イツモ心気ヲ遠二費シ精神ヲ労ス、兎角明日ノ事ハ命之程モ覚束ナシ、カク云バ迚、今日ノ産業ヲ鹿末ニセヨト云ニハ非ズ、今日一日暮ス中ノ勤ヲ励ミ行フベシ、タトヘ如何ナル苦ミトテモー日ト思バ堪ルベシ、楽シミトテモ只一日ト思バ流ル、事有マジト也、予、此ヲ聞テ甚感ジヌ、実ナル哉、愚ナル老親二不孝ナルモ永シト思フ故也、君二忠ヲ成スモ是二同ジ、一日々々ト思バ退屈有マジ、日日新而又日日二新ナリト云ルガ如シ、心術ノ上モー日一日ト修行而今日モ目出度修行セリ、又今日モ目出度修行セリト云コソヨケレ、日課ナドモ今日一日ト勤レバ千年万年勤ルモ易キ事ナリ、何事モー生セネバナラヌ事ト恩故二大義也、一生ト云ハ決テ永キ様二思ナレド、後ノ事ヤラ明日ノ事ヤラー年二年乃至百年ノ事ヤラ誰モ知ル人有ベカラズ、死スルヲ限リト思バー生ニダマサレ易シ


 
「昔、こんなことをいった人がおったんじゃと(この場合、正受老人本人のことです)。自分の人生は今日一日のものじゃと覚悟して生きていけば、精神的にも安定していて、病気にもならない。
 なぜかといえば、一か月という月日はまず一日から始まり、千年万年という歳月もまた、一年という年から始まるものであり、大切なのは一日を一生懸命生きていくということなんじゃ。
 明日のことを思い悩んだところで、その明日という日がどうなるのかはだれもわかりやあせん。明日のことばかり心配していると、今日という日を生きることがおろそかになってしまうね。明日になったときに明日のことを考えれば、そのまま幾十年を生きていけるのじゃ。今日のことを忘れ、明日のことばかり考えるから不安や心配が多くなってしまうんじゃ。よう考えてみれば、明日の生命が保証されているわけではなんじゃ。
 明日のことがわからないからといって、今日一日をいいかげんに生きていけ、というわけではなく、今日一日を誠実に生きていくことが大事じゃよ。たとえ苦しいことがあっても、今日一日だけ、と思えば耐えることもできるし、また楽しいことがあっても、一日を区切りと考えれば、その楽しさにおぼれてしまうこともないんじゃ。
 この、昔の人の言葉を聞いたとき、私は、なるほどと感心した。怠けたり親不孝をしている人は、今日より明日のことを気にかけすぎているから、そうなるんじゃ。忠を尽す心がまえにおいても同じことがいえるんじゃ。
 今日一日を頑張ろうと思えば、退屈することもなかろう。一日一日を新しい気持ちで迎えれば、一日が新鮮になってくるんよ。精神修行をするときも、一日を単位に、今日はよくやったなと思うことじゃ。日常のことを行うにしても、一日をしっかりやり遂げればいいと思えば、千年万年もやりつづけることができるんじゃ。何事も一生つづけねばと思うから、大変なことと感じるのじゃ。
 一生というと長いように思われるんじゃが、長いか短いかだれにもわからない。明日のことすらだれもわからない。まして来年のことや百年後のことなど、どうなっているのかを知っている人などおりゃあせんのんじゃ。
 死ぬまでが一生でもないんじゃ。明日のことさえわからないのなら、今日そのものが一生なんじゃ。


 釈尊の『一夜賢者経』の心に通ずるものがあり、この「一日一生」つまり、今日という日を精一杯生きるというのは、禅の心の中核をなすものと言ってもいいでしょう。
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