澤木興道老師は、日露戦争に出征し、負傷されました。確かに当時はお国のために戦ってこられたのですが、第二次世界大戦が終わってみると、自らがグループボケしていたことに気付かれたようです。
「忠義、忠義と言うけれど、どっち向いてどうしておるのかわからぬ。わしらも日露戦争では本気になって戦争したのじゃが、こう負けてみると、せんでもよかったことをしたということが、よう分かる。だいたい戦争なんぞせんでもええんじゃ。」
澤木興道老師はよくグループボケということを言われますが、戦争こそグループボケのさいたるものなのです。そして、このグループボケののぼせをさますのが坐禅なのです。まわりに流さず、常に自分自身で、何が正しいか、何が善い事なのかを考えていかなければなりません。
「忠義、忠義と言うけれど、どっち向いてどうしておるのかわからぬ。わしらも日露戦争では本気になって戦争したのじゃが、こう負けてみると、せんでもよかったことをしたということが、よう分かる。だいたい戦争なんぞせんでもええんじゃ。」
澤木興道老師はよくグループボケということを言われますが、戦争こそグループボケのさいたるものなのです。そして、このグループボケののぼせをさますのが坐禅なのです。まわりに流さず、常に自分自身で、何が正しいか、何が善い事なのかを考えていかなければなりません。
なるほど、澤木老師のこのご発言、素晴らしいのかもしれません。しかし、この澤木老師に対して、何やら絶対視するかのような信心を持っている人がいます。しかも、拙僧などは、澤木老師は、所詮この程度・・・と、問題点を申し上げると、その人達はよってたかってつぶしにかかってきます。どうやら、澤木老師に「心酔」するという「グループボケ」が、儼然と存在しているようです。
何かに心酔してしまうこと自体が迷いなのですね。
仏の教えとはとらわれなきもので無ければなりませんね。