明石の水道用貯水池、野々池貯水池に植えてある椿の樹の数を数えてみた。全部で52本強ほどで、そのほとんどが明石の沢野地区側の外周路土手にある。内周路中央に植栽しているアベリアの中にも多くの椿が植えてあったが、数年前にすべて切取りなくなってしまったので、現在、沢野側の外周路土手だけに残った。思うに、野々池貯水池の施工当時、昭和49年当時は相当な数の椿が植えてあった推測されるが、それにしても多くの椿が残って咲いている。しかも、選りすぐりの多彩な色遣いをした椿ばかりで、ピンク色の椿がどちらかと言えば多いのだが、上品な紅色や白色のも多く、白とピンクの混ざったものもある。季節の花を特集した「春・花づくし」という本の「椿」の項に取上げられた有名な椿とよく似たのもあるし、同じ色合いでも咲いた花弁の形が違っていたりする。野々池貯水池ジョギングコースの端に植樹された、こんなに見事な椿が春になって咲くと、それまでの茶色一色だった土手が、一瞬にして賑やかに変わる。こうして、野々池貯水池のジョギングコースを通勤に使ったりウォーキングで歩いたりで毎日通ってきたが、ブログを書くようになって季節が来ると椿の咲き具合を記録して、その移り変わりを見てきた。
もうかなり前の話になるが、会社勤めの現役の頃、野々池貯水池のジョギングコースをジョギングしていると、土手の椿の根元に施肥している人がいた。沢野団地にお住まいで同じ会社に勤めていた、故武本一郎さんだ。「何をしているんですか」と聞くと、「いやな、野々池貯水池の椿は非常に珍しい種類のものが一杯あるのに、市役所が手入れしないから、枯れかかっている。 だから、こうして肥料を入れているんや」と仰る。それにしても、野々池貯水池周りには、沢山の椿が植わっているのに、その椿の周りを掘ってはバケツ一杯の肥料を入れては埋める。これを毎年繰り返しているのだと言う。亡くなられてからその後、誰も施肥しているのを見たことがないが、椿は綺麗に咲き続けた。武本さんは、またある時、野々池貯水池のウォーキングコースを汗びっしょりになってジョギングしておられ、すれ違うと「ヤーッ」と手を挙げられた。気さくな人だった。
私は永い間、レース車の開発運営やその量産車の開発に従事してきた。モトクロスを中心したオフロード車の開発が主で、世界中のレース活動に関与しながら、仲間と共にオフ車を高収益事業に転換させてきた。オフロード車事業を高収益部門として維持していくためには、開発の原点となるレース活動は不可欠だという理念をもって実績を挙げてきた。何時もそのことばかりを考えていた。幸いに、レース開発の経験をもたれた部長が技術部から資材部に転出されて、オフ車のコスト見直しを重点的に活動してくれた時期でもあり、採算性向上のための策を順次打っていった。
その時に、出くわしたのが企画部や生産企画部の部長を担当しておられた故武本一郎さんである。レース運営を含むオフロード事業に非常に強い関心を持たれ、数度電話があって「レースを一緒に見させてくれ」との事であった。レース担当した期間(約15年近くにもなるが)、営業や企画部門からレース観戦したいという申し出は後にも先にも「故武本一郎さん」一人のみだった。いわゆる事務屋がレースに興味がある等とは、それまで考えもしなかったので、当時、その発言は極めて新鮮に聞こえた。電話を受ける際も「オフロード事業の進み具合はどうや」と、レース戦績ではなく、まずモトクロスの事業性の進展状況を最初に聞かれるのが通例で、他社との戦闘力予想を聞いてくれる唯一の企画マンであった。
その後、武本一郎さんと同期入社の種子島経さんが書いた著「くたばれ!リストラ」の「あとがき」に武本一郎さんの人柄を紹介されているのを読んだ。それにはこうある。「信念をもって、開校したばかりの防衛大学を二年間受験したが近視のため不合格となった。やむを得ずに入った東京大学を昭和35年卒業し、当時防衛産業の比率が最も高いメーカーのひとつだった川崎航空機工業(株)(現在の川崎重工業(株))に入社した。その企画マンとしての頭脳の冴えは万人の認めるところだった。だが、誰の前でも自説を主張して譲らない剛直さ、駆け引きや妥協を絶対にやらない純粋さ、親分、子分を一切持とうとしない独立独歩性、等々は、昭和から平成にかけての大企業では、敬遠され、変人扱いにされることのみ多かった。自分より遥かに劣る連中が、取締役だ、常務だと昇進するのを横目で眺めるのは、自負心の強い彼だけに耐えられない面もあったのだろう」とあった。この人物評価を読んで、思いの強い優秀な人だったのかと、それは然もありなんと自然に納得できた。「自説を主張して譲らない人」だと言うのは一緒に仕事をした部下からも聞いたこともあるが、私個人的思うに、そんなことは決してないと思っている。と言うのは、武本さんから度々直接質問を受けた経験や熱意、そして公園の椿に一人もくもくと肥料をやる純粋さ執念を、その人達は理解できないだけだったのだ思っている。むしろ「同じ仕事の成果を目指す同志」だったに違いないと今でも思っている。その後も、度々、故武本一郎さんをよく知る複数の大先輩諸氏からも、武本さんの優秀さを毎度聞くたびに、そんな非凡な能力を活用できずにいた環境を残念に思った。



もうかなり前の話になるが、会社勤めの現役の頃、野々池貯水池のジョギングコースをジョギングしていると、土手の椿の根元に施肥している人がいた。沢野団地にお住まいで同じ会社に勤めていた、故武本一郎さんだ。「何をしているんですか」と聞くと、「いやな、野々池貯水池の椿は非常に珍しい種類のものが一杯あるのに、市役所が手入れしないから、枯れかかっている。 だから、こうして肥料を入れているんや」と仰る。それにしても、野々池貯水池周りには、沢山の椿が植わっているのに、その椿の周りを掘ってはバケツ一杯の肥料を入れては埋める。これを毎年繰り返しているのだと言う。亡くなられてからその後、誰も施肥しているのを見たことがないが、椿は綺麗に咲き続けた。武本さんは、またある時、野々池貯水池のウォーキングコースを汗びっしょりになってジョギングしておられ、すれ違うと「ヤーッ」と手を挙げられた。気さくな人だった。
私は永い間、レース車の開発運営やその量産車の開発に従事してきた。モトクロスを中心したオフロード車の開発が主で、世界中のレース活動に関与しながら、仲間と共にオフ車を高収益事業に転換させてきた。オフロード車事業を高収益部門として維持していくためには、開発の原点となるレース活動は不可欠だという理念をもって実績を挙げてきた。何時もそのことばかりを考えていた。幸いに、レース開発の経験をもたれた部長が技術部から資材部に転出されて、オフ車のコスト見直しを重点的に活動してくれた時期でもあり、採算性向上のための策を順次打っていった。
その時に、出くわしたのが企画部や生産企画部の部長を担当しておられた故武本一郎さんである。レース運営を含むオフロード事業に非常に強い関心を持たれ、数度電話があって「レースを一緒に見させてくれ」との事であった。レース担当した期間(約15年近くにもなるが)、営業や企画部門からレース観戦したいという申し出は後にも先にも「故武本一郎さん」一人のみだった。いわゆる事務屋がレースに興味がある等とは、それまで考えもしなかったので、当時、その発言は極めて新鮮に聞こえた。電話を受ける際も「オフロード事業の進み具合はどうや」と、レース戦績ではなく、まずモトクロスの事業性の進展状況を最初に聞かれるのが通例で、他社との戦闘力予想を聞いてくれる唯一の企画マンであった。
その後、武本一郎さんと同期入社の種子島経さんが書いた著「くたばれ!リストラ」の「あとがき」に武本一郎さんの人柄を紹介されているのを読んだ。それにはこうある。「信念をもって、開校したばかりの防衛大学を二年間受験したが近視のため不合格となった。やむを得ずに入った東京大学を昭和35年卒業し、当時防衛産業の比率が最も高いメーカーのひとつだった川崎航空機工業(株)(現在の川崎重工業(株))に入社した。その企画マンとしての頭脳の冴えは万人の認めるところだった。だが、誰の前でも自説を主張して譲らない剛直さ、駆け引きや妥協を絶対にやらない純粋さ、親分、子分を一切持とうとしない独立独歩性、等々は、昭和から平成にかけての大企業では、敬遠され、変人扱いにされることのみ多かった。自分より遥かに劣る連中が、取締役だ、常務だと昇進するのを横目で眺めるのは、自負心の強い彼だけに耐えられない面もあったのだろう」とあった。この人物評価を読んで、思いの強い優秀な人だったのかと、それは然もありなんと自然に納得できた。「自説を主張して譲らない人」だと言うのは一緒に仕事をした部下からも聞いたこともあるが、私個人的思うに、そんなことは決してないと思っている。と言うのは、武本さんから度々直接質問を受けた経験や熱意、そして公園の椿に一人もくもくと肥料をやる純粋さ執念を、その人達は理解できないだけだったのだ思っている。むしろ「同じ仕事の成果を目指す同志」だったに違いないと今でも思っている。その後も、度々、故武本一郎さんをよく知る複数の大先輩諸氏からも、武本さんの優秀さを毎度聞くたびに、そんな非凡な能力を活用できずにいた環境を残念に思った。









