野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

Kawasakiで活躍した”Olle Pettersson”

2016-03-26 09:56:59 | 二輪事業
26日のアメリカMX専門ネット「Motocross Action」 CLASSIC PHOTOS: THE MAN WITH THE PLAN FOR JAPANに、Olle Pettersson を取りあげている。「Olle Pettersson was a successful Husqvarna Grand Prix racer when the Japanese brands made their first foray to the GP circuits in the late 1960s. Olle signed on to develop the Suzuki GP bikes, which were later used to devastating effect by Joel Robert and Roger DeCoster. Olle then moved over to Kawasaki to R&D their GP bikes.
   「Motocross Action」

カワサキのMXGPマシン開発黎明期、Olle Pettersson選手は、当時モトクロスの主流であった欧州において、カワサキのMXマシン開発に多大な影響を与えた。その事実を、2013年11月に開催したモトクロス開発陣のOB会、「KX40周年有志の会」で、当時の開発責任者達が次のように証言している。当時のレース部門開発責任者だった百合草三佐雄さんは、次のように書いている。「KXが誕生した頃は世界モトクロスの主流はヨーロッパ勢であった。 アムステルダムを拠点として岩田さんが駐在し、開発ライダーにペテルソン、レースで勝つためにハンセンと 契約しヨーロッパ各地のレースに参戦し、KXの開発を行った。

そして、欧州現地で本格的モトクロスマシンの開発に専念した伊吹さんの証言:「KX40周年を祝う有志の会」:伊吹清隆 「1960年代後半には、二輪ロードレースGP界を日本メーカーが席巻しており、モトクロスGPの舞台においてもスズキとヤマハが輝かしい戦績を上げていました。 カワサキは国内において市販改造車による赤タンク時代の実績はあったものの、1972年4月に本格的にモトクロス車の開発のための新組織(技術部開発1班)を 立ち上げた当時は、先行二社との歴然とした技術的ギャップが存在していました。 赤タンク時代の星野、山本氏等スター選手は、既に引退していて、 経験の少ない若手ライダーのみではマシン開発の方向性も掴みかねている状況でした。一挙に世界GPを戦えるマシンを開発することを目標において、 開発ライダーとして評価の高かったスエーデン人オーレ・ペテルソン氏と契約を結びました。1972年秋、溶接部品と簡易治具を持ち込みペテルソン宅のガレージ内で フレームを製作して、テストを繰り返しながら改良をするなどの大胆な試みを約1ヶ月かけて遂行しました。メンバーは、KHIから岩田、伊吹、藤原の3人、ペテルソン氏と 弟(メカニック)の5人編成であり、加えてカヤバ社から眞田氏が参加しました。このプロジェクトによって技術的方向性を掴むことができて確かな成果が得られたと確信しています。また、ペテルソン氏のマシンへの細部にわたる適切なアドバイスと共に、 実直で親切な人柄からモトクロス全般に関する多くのことを教えられました。その後、ハンセン(250cc)、ハマグレン(500 cc)の2選手によりヨーロッパGPに参戦し、 短期間でまずまずの実績を残せるまでレベルを上げることができたのは、このスエーデンでのプロジェクトが土台になっていると考えます。」
   
   (Olle Pettersson、Stig Pettersson、Vic Iwata)

加えて、モトクロスマシンの重要構成部品である、サスペンションメーカーから現地に派遣されたKYBの眞田さんの証言:「KX40周年を祝う有志の会」:眞田 倬至(KYB(株)OB) 「1972年、得意先から酷評を受けていたカヤバの2輪車用緩衝器に対し「世界一の商品を見つけ出せ!」と、上司から重い責任と種々の試作品を背負いながら世界を80数日間放浪。まだ粗削りのDe Carbon式ガスダンパーのポテンシャルを見出してくれたのが唯一、Pettersson氏(K社契約・元MX世界チャンピオン)だった。 これが契機となって2輪車用ガスダンパーの開発が始まった。この後、数年の歳月と一切の妥協を許さない上司の指導、それに優秀で忍耐強い同僚たちによって手が加えられ、 先に商品化されていた4輪車用ガスダンパーとは似ても似つかぬ製品に仕上がった。究極の性能を要求されるレースマシンから始まり、高性能な2輪車にはガスダンパーが 装着され今日に至っている。彼の一言がなければ2輪車用緩衝器事業の社史は別の運命を辿っていたと私は思う。今回、出掛ける前にKYB秘書室に私の計画を伝え、会社のロゴが入ったお土産と最近の会社概況冊子を携えPettersson氏にお渡しした。ご本人からは「プロライダーを引退してから初めて会う2輪車関係の珍客。このように自分を評価して頂き幸せだ」との言葉を頂いた。
   
   (41年ぶりの再会にはPettersson氏(私の右・手前)、奥様、二人の子供の夫婦と孫たち8人が、
    Strangunus(Swedenの首都、Stockholmから西に100km)で温かく私を迎えてくれました。
    私の良き遊び相手だった坊や(写真右から2番目)も今や45歳です。彼も父親の血筋を継ぎ、
    Sweden MX125㏄のチャンピオンになったそうです)

1973年にデビュー以来、数多くの勝利とタイトルを獲得し続け、その評判を揺ぎ無いものとした、カワサキの輝かしいモトクロッサー「KX」は2013年に40周年を迎えた。その間、一度たりとも開発を中断することなく、一度たりとも生産を中断せず、一度たりともレースを止めることもなかった40周年。その原点に、当時の開発陣の一人として、Olle Pettersson選手が多大な貢献をしたことは間違いない事実で忘れる事は出来ない。その後、KXはモトクロッサーの最適技術を開発し続け、世界中のモトクロスファンに愛され、多くのチャンピオンを勝ち取りながら今も改良され続けている。

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