しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

学徒動員(青年学校)

2024年01月15日 | 学制150年

青年学校は戦後まで全国に存在していたが、もはや幻の学校と化している。
国が法律で決めた義務教育の学校だったが、戦時で生まれ、戦時が終わると消えていった。

今、数少ない卒業生が世を去りつつあり、あと数年もすると、
「青年学校」が存在したことさえ消えてしまうだろう。

・・・


・・・


「学校の歴史第3巻中学校・高等学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

小学校の校門には、高等小学校、実業補習学校、青年訓練所の三つの看板がかかげられ、
青年は書類上、高小卒・補習学校後期二年卒のかたちで教練以外の時数を消化し、
さらに青年訓練所二年在所によって教練の時数をこなしたと説明されるものもあれば、
青年訓練所だけの籍をもって普通学科、職業学科は、補習学校と併せて行うと説明されるものもあるといったように、
教育制度体系に混乱の種子を落した。
青年訓練所もまた愛郷心の涵養、郷土の理解、自然への親しみを強調したし、農業実習すら教練の一手段としようとしたなど、
農業補習学校の農村教育的側面を強化する役割を果した。

昭和10年4月に誕生した青年学校は、今まで述べてきた実業補習学校・青年訓練所を一本化し、
より訓練所よりに兵士予備軍、忠誠なる 国民育成の使命を帯びていた。

公立青年学校のほとんどが小学校併置であり、施設・設備はゼロに近いとされていた
昭和13年には全国の青年学校生徒数約221万であるが、
不満点として、
「一、青年 学校は働く者がその余暇に訓練を受ける施設であるといふ、補習学校時代の性格そのまま踏襲されてゐる制度上の不徹底さである。
二、次に相も変らず小学校への寄生的存在である点が少しも反省されてゐなかったことである。
三、青年学校へ出す保護者及雇傭主に理解と熱情の乏しきことである」等々を指摘している。


青年学校の設置数は、昭和11年段階で郡部と市部との比率は94対6であり、
本科において、職業科に農業だ けをおいているのが69.5%を占め、何らかと組み合わせて農業をおいているのを総計すると86.3%にものほり、
まさに農業主体の青年学校であったといえよう。

昭和14年4月 「青年学校令」を改正し、
年齢満12歳から満19歳に至るまでの男子は、上級進学者を除いて就学せしむべき義務を保護者に課し
青年学校義務化は、形式的には教育の機会拡充といえるのかもしれないが、実業教育の進歩発展とはいえず、逆に学校教育の完全な軍部への屈服を象徴する制度改革であったというほうが妥当であろう。

・・・

・・・

「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行


青年学校の統廃合
義務制実施に伴って、昭和16年度から各地方につぎつぎと青年学校が設立された。
学校数の増加に伴い、最大きな問題は教員の不足ということであった。
これは発足当初からの問題で、これまで実業補習学校には専任 の教員がほとんど置かれず小学校の教員が兼務していた。
青年学校には特に相当数の専任教員を置くべきことが規定されていたが、現実はほど遠かった。
実際には教練科の教授及び訓練を担当する者として在郷軍人のうちから指導員が選ばれたのである。
青年学校における教練科の重要性からみて指導員の果たす役割は極めて大なるものがあった。 
教員の不足は応召する教員の増加によって、ますます教員組織を不安定にした。
そのため、政府は17年小規模校を統合して教育効果をあげるよう指示し、
岡山県においては、昭和16年491校であったのが、20年には302校に減少している。

 

「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行


青年学校教育の柱となった軍事教練は、陸軍の強い指導のもとにますます重視され、在村の軍隊教育といってもよかった。
湯原青年学校にみるように「兵農一如の錬成道場」と自他ともに称していたのが偽わらざる姿であった。
学校兵営訓練が行われて、不寝番勤務なども厳格に行われた。 
銃架防具棚や炊事場もつくられており、女子の宿泊訓練も実施され、20年4月からは校長が学校に宿泊している。(湯原町史)
勤労青年教育の青年学校が生産増強に大きな役割を果たしたことはいうまでもない。
18年ごろの農村における青年学校生徒の日常生活は、普通科の授業時間が大きく減少し、
軍人遺家族の勤労奉仕(麦刈、田植、稲刈等)、
土地生産力増加のための排水工事、開墾作業、製炭、木材搬出、食糧増産、松根採集、植林等に動員され た。
出征軍人の歓送迎、軍人援護活動、町村葬、慰霊祭奉仕もかかせない行事であったし、炭坑奉仕隊を編成し出動したり、被服工場へ勤労奉仕にでかけている。


「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行

学校報国団

作業は軍人遺家族留守宅を含めて農村では米麦増産の作業全般に協力した。
このような集団作業を進める組織が、学校報国団の結成である。
学校の生徒が学業を捨てて勤労作業を行うことには種々の論議もあったが、当時の時局が強く要求したこと 反主知主義的教育思想に基づく労作教育による理論的裏付けが行われたことによって実施された。
食糧増産運動の第一線で活躍したのは、農業学校と青年学校の生徒たちであった。
農業学校生徒が開墾して作った農場を学校特設農場といい、各校とも広大な山野を開墾した。 

 

戰後
青年学校の義務制は、非常時局を背景とした当局の強い拘束がなければ、とうてい維持できるものではなかった。
終戦とともに、男子生徒の出席率が極めて悪くなったのは当然のことであった。
これまでの異常な拘束から急に解放された青少年の風儀は著しく悪化の傾向をたどるところが少なくなかった。
学校では家庭訪問、レクリエ ーション、スポーツ、講演会等とくふうをこらして、男子生徒に登校を奨励したが実績はあがらなかった。

・・・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学徒動員(国民学校)

2024年01月15日 | 学制150年

 

・・・

「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行

軍隊的規律
15,16年ごろから児童・生徒は二列縦隊にならび、上級生の引率のもとに通学するようになった。
教師に対しては一せいに挙手の礼を行い、職員室に出入りするときは、氏名を名乗り、命令を受けたら必ず復唱していた。
女子の学校でも、体育に武道 (薙刀)が採用され、体操も教練式で閲兵、分列なども男子と変わらなかった。 
国民学校も女子に武道 (薙刀)を指導するようになり、男女の閲兵、分列行軍演習など、中等学校と変わらないようになった。

団体訓練はあらゆる機会をとらえて強化された。
毎月8日は「大詔奉戴日」として全校で学区内の神社に参拝し戦勝祈願をした。
隊列を整え正常歩による行進で、出発から帰着までいっさい無言であった。
校庭における閲童式や閲団式もよく実施された。
体操の時間にはこの基礎訓練が繰り返され、少年団活動と一体になって行われた。
少年団は文部省の直接指導下におかれが、昭和17年4月には大政翼賛会の管下にはいった。
この少年団は国民学校と一体のものであり、初等科3年以上の全児童が団員となった。
国民学校長が少年団長を兼ね、児童の校外生活すべてにわたっていた。
敬礼のできる子ども、わきめもふらぬ真剣な態度、相手を射る注目、足先指先まで気をつけた堂々たる姿勢など、
軍国の子どもに欠かせない訓練内容として少年団活動はこれによくこたえた。
当時は、多くの家庭に明治天皇や大正天皇、今上天皇・皇后の写真が掲げられ、
敬神崇祖と共に忠君愛国の思想を培う場になっていた。

運動会も強健な身体と不屈な精神を養う体練科の趣旨にそい、内容は戦時色を濃くしていった。
遠足は春秋二期行われていたが,名称も鍛錬遠足と称して毎月行う学校が多くなった。
弁当は「日の丸弁当」に限り、おやつは許されなかった。
児童は校歌や軍歌を歌い意気盛んであった。
日ごろの体操の時間にも半裸、はだしで鍛えることが多かったので、
かれらの徒歩力は意外に強かった。


・・・


「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

戦時期の小学校と国民学校

昭和13年以降、勤労奉仕作業がひろく行われるようになった。
学校内では、学校園、教材園、家畜舎(鶏や兎、豚、牛など)の運営等に教師も児童も一致協力していそしみ、
学校外では、出征軍人遺家族への農繁期手伝いや、社寺の清掃奉仕作業や郷土の道路修理作業などが実施され、
その勤労作業を通じて、児童に勤労愛好と相互扶助ならびに奉仕の精神を養おうとした。

昭和18年6月、内閣は「学徒戦時動員体制確立要綱」を決定し、 学生生徒を労働力として勤勞動員勤労動員する体制を確立した。
この通牒以降、国民学校高等科児童も、農林水産業や工場等の生産現場において労働力として期待されることになったのである。
なお高等科の児童のみでなく、初等科の児童も食糧増産業の軽易な勤労作業に参加した。
国民学校高等科の学童は、食糧増産の農作業に従事したところが多かった。 
「応召家庭や〝誉の家"に対する農作業の手伝い、山林・荒地の開墾作業を行ない、また学校園(校外や運動場)を経営して甘藷、大豆、 麦、そばなど 増産した」。 
山村の学校では、松根油を採取したり、 「炭焼き用材の搬出、炭焼き作業、薪炭の山出し、植林作業 等を行なった」。

昭和19年3月には「決戦非常措置要綱二基ク学徒動員実施要綱」が閣議決定された。
この決定で、中等学校程度以上の学生生徒の通年動員の態勢がとられることになったわけである。
昭和19年7月になると、労務需要はますますひっ迫したため、
国民学校高等科児童も継続動員できること、
国民学校高等科児童も、農林水産業や工場等の生産現場において労働力として期待されることになったのである。
なお高等科の児童のみでなく、
初等科の児童も食糧増産業の軽易な勤労作業に参加した。

国民学校高等科の学童は、食糧増産の農作業に従事したところが多かった。
「応召家庭や”誉の家"に対する農作業の手伝い、山林・荒地の開墾作業を行ない、
また学校園(校外や運動場)を経営して甘藷、大豆、麦、そばなど増産した」。 
山村の学校では、松根油を採取したり、「炭焼き用材の搬出、炭焼き作業、薪炭の山出し、植林作業 等を行なった」。
漁村や漁港では、網引きや沖釣りによる漁業実習に従事したり、
「その他防空壕掘り、軍用道路の整備、農業用水の暗渠や堤防の修築などの土木作業」、
航空基地の近くでは、「飛行場の整地、草刈、石拾いなど」

・・・

学校神社  「笠岡小学校百年史」

 

・・・
「岡山の教育」 秋山和夫 岡山文庫 昭和47年発行


戦時下教育の一面
儀式や学校行事の教育的意義が重んじられるようになり、戦争に勝つために「必勝の信念」 と「堅忍持久」の精神の涵養につとめたのである。
神への戦勝祈願も重要なこととされ、毎月一度は全校をあげて戦勝祈願のための神社参拝もおこなった。
現人神である天皇を中心とした神国主義の形成のために、御真影を安置してある奉安殿や校内にある神祠の清掃は特に重要なことであった。
国民学校になって武道が新しくとり入れられ、 児童の体力づくりと精神力の育成のための重要な教科として位置づけられた。

・・・

「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行


防空体制の強化に迫られ、昭和18年11月「岡山県学校防空指針」が制定され、
各学校の防空計画の基準が警戒警報、空襲警報の発令が日増しに頻繁となり、全国主要都市の空襲のニュースもたび重なるようになった。
燈火管制の徹底、防空要員の確保、待避施設の整備等防空態勢には多くの問題が残されていた。
児童や女学校生徒は防空頭巾を携帯して登校した。
女子は活動の便からモンペをはくようになった。
学校では空襲にそなえて待避壕がほられた。
訓練警戒警報や訓練空襲警報のサイレンを合図に、毎日のように訓練が行われた。
学校の建物は敵機の目標になりやすいので少しでも分散させるのが安全であり、家庭へ避難する訓練もたびたび行われた。
ポンプ操法やバケ ツリレーの消火訓練も行われた。
しかし、学校の防空訓練は御真影の奉護と児童生徒の保護が最重点であった。 
当時の学校日誌をみると、警戒警報も20年の4月ごろからは、連日 昼夜の別なく警戒警報、空襲警報が発令され、
登下校中も油断できなくなった。
夏に綿入れの防空づきんを頭一ぱいかぶり氏名、血液型を記した布を胸に縫いつけたスフの洋服を着て学校に通った。
工場に動員中の生徒も、警戒警報のたびに避難するので、実働時間は半減していた。

・・・

・・・

「創立百年記念小学校誌」 笠岡市立大井小学校 昭和52年発行


 (昭和20年度卒業)

私達の入学は,昭和15年4月で,この年から学校の名前も国民学校と呼ばれるようになりました。
その年の12月8日に,第2次世界大戦 (当時は大東亜戦争と呼んでいました。)が始まり、戦争、戦争の毎日が続き, 勉強どころではなかった小学校時代であったかと思われます。

4年生の頃には,戦争も激しくなり、授業は午前中ぐらいで午後は空襲にあった時の避難訓練をよくしたように思います。
また土地におられる若いお父さんやお兄さん(当時16歳位) 達が毎日のように戦争に狩り出されて行き、
その出征軍人さんを大井村 (今の追分)の駅まで国防婦人の皆様と見送りに行くことが度々いや毎日のようにあったと思います。 
全校生徒で先生につれられてお宮に参っていました。 
5年生の頃は海外の戦況も悪化して、昼も空襲があったりして授業も中断することが続くようになりました。 
上級生と共に六道の山へ開墾に行き、戦争に勝つため、食糧増産にと切り開いて、芋を作ったり、麦を蒔いたりしたものです。 
そればかりか、運動場も大半は耕して,それにも芋、麦、稲 どを作っていたような訳で、もちろん運動場で遊ぶ事も楽しい運動会もありませんでした。
6年生の頃には、戦況も最悪となり、本土決戦を叫ぶ声も一段と強まって、初等科以外の学校では授業を4月から1ヵ年間停止されました。

 ・・・


日本は食糧も兵器も将兵も不足した。
初等・中等学校の生徒は、
食糧増産・工場動員・志願兵に励んだ。

いっぽう、
内地で不足する食糧や労働力は、本土外から半ば強制的に移入された。

 

・・・


「教養人の日本史・5」 藤井松一 現代教養文庫 昭和42年発行

強制連行の記録

太平洋戦争期間中、昭和14年から20年にかけて日本に強制的に連行された朝鮮人労働者は72万余名といわれている。
すでに日中戦争開始後は、産業の戦時体制化にともなって、とくに石炭・土木などの部門で朝鮮人労働力の吸収が計画的に進められ、
14年7月には国民徴用令が施行され、〝募集"という名の徴用による朝鮮人労働者の内地への強制連行が本格的に開始された。 
昭和14年の運行は、石炭山・金属山・土建業などに許可され、
事業主の代理人が南朝鮮の七道の地域に出張し、割当人員の狩り立てにつとめた。
その連行ぶりは、「憲兵とともに釜山に上陸し、トラックをもって、
町を歩いている者、田圃で仕事をしている者なども手当たり次第、
役に立ちそうな人を片っぱしからそのままトラックに乗せて船まで送り、日本へ連れてきた」という。

内地に連行されたかれらは、厳重な監視の下に集団生活をさせられた。 
逃亡防止のためである。
かれらはもっとも危険な場所--坑道開鑿、岩石掘進、水現場など--に駆りたてられた。
軍隊や 憲兵のきびしい監督の下で働いた。
作業現場での事故死、
墜落、爆発などの事故死と病死ならびに溺死。
逃亡に失敗したもののみせしめのリンチ、虐殺は日常茶飯事となった。

・・・

「千田学区地域誌」  福山市千田学区町内会連合会  2008年発行


学校・家庭の様子


校庭では碁盤の目のように四列縦隊で、駆け足や行進が出来るだけの通路を残し、
残りは掘り起こして畑とし、甘藷を植えて食糧増産の一助としていました。

山の松に鋸で切り目を入れて松ヤニを集めたり、よもぎ・わらび・なずなやどんぐり等を食料不足のため採集したり、
桑の木やカズラを剥いで繊維とする手助けをしていました。
学校に炭焼き釜を作り木炭の生産をしました。
唱歌は軍歌一辺倒になり、体育はみな裸足でした。
縁故疎開も多く千田国民学校の各クラス20%位いました。


男性(昭和8年生)

私は千田尋常に入学し、2年生の時に千田国民学校と名前が変わりました。
それとともに教育内容も皇国民育成を目的にするものに改められました。
宮城遥拝・・・全校生徒が宮城の方向に向かい「天皇陛下に対し奉り最敬礼」という号令で最敬礼をするのです。
奉安殿・・・昭和3年に建設されまた。式典当日の朝には校長先生が白手袋をはめて、うやうやしく奉持して式場に運んだものでした。
増産・・・校庭でのサツマイモ、峠山の学校農園での増産。農繁期の出征兵士の農家や遺族の農作業などに、高学年の児童が派遣され授業の一環とみなされました。
天皇の名を覚える・・5年生の国史では、初代から124代まで、全部間違えずに言えるものが優秀だと評価されました。
教育勅語は4年生で覚えました。
軍人勅語は難解で長いものでした。皆で斉唱し、皆覚えていました。
終戦の直前、最もよく歌っていた歌は「勝ち抜く僕ら小国民」でした。
その頃、国民によく歌われていたのは「予科練の歌」でした。
近所のお父さん、お兄さんたちの戦死、横尾駅への遺骨のお迎えも毎日のようで、悲しみの心がマヒしていました。

・・・

「百年誌」 笠岡小学校  昭和48年発行

昭和20年6月15日
学徒出動 (女子校高等科2年)
昭和20年6月28日
学徒出動 (男子校高等科2年) 大塚工場への入所式 8月27日に退所式
昭和20年7月6日
製塩用砂採集 (5,6年)(女子校)
昭和20年7月23日
学徒出動(報国鉄工所) (女子校高等科1年)

・・・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国民学校発足

2024年01月14日 | 学制150年

・・・

「笠岡小百年史」

国民学校発足

昭和16.4.1
国民学校令施行により, 笠岡町男子国民学校・笠岡町女子国民学校と改称。


昭和16.9.15
粗食訓練をし, 麦飯を食べることを奨励。

昭和16.12.8
米英に対し, 宣戦布告の詔書渙発, 帝国必勝祈念のため,全児童笠神社へ参拝。

 

・・・

「教育の歴史」  横須賀薫 河出書房新社 2008年発行

昭和16年(1941) 「国民学校令」が公布され、
明治以来広く市民に親しまれてきた小学校の名称が 「国民学校」に改められた。
国民学校令の第一条に「国民学校は皇国の道に則りて初等普通教育を施し国民の基礎的錬成を為すを以て目的とす」とあり、
この目的に向かって教育内容も大きく変革していった。
国民学校は初等科六年、高等科二年とし、その上に一年の特修科を認めた。
初等科の教科は国民科、理数科、体鍊科及び芸能科で改められたが、高等科はこれに実業科が加わった。 
国民学校の教育理念に基づき授業内容も大きく改められたが、従来の修身の授業内容に「礼法」を加え、国語には従来の「読方」「綴り方」「書方」のほか「話方」が加わった。 
国民学校の教科書は、低学年向けには色刷りの絵が多くみられた。
教育上の苦心がみられるが、内容は当時の社会情勢や思想を反映し国家主義的色彩が濃かった。

・・・

「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行

日常の生活訓練
昭和16年12月8日、ついに太平洋戦争に突入した。 
幼い子どもにも宣戦の詔勅と緒戦の戦果のニュースは、教師による訓話と相まって、かれらの生活意識を大きく変えた。
体錬科が重視され、時間数も倍増し、その傾向はいっそう強化された。

下校、家庭、社会
毎日の通学も、「通学新体制」の名の下に、きびしい指導が行われた。
町内会あるいは部落単位に各整列場を決め、一定時刻に集合、二列で登校、校門をはいる時は歩調をとって歩いた。
奉安殿に対する感謝のことばと誓いのことばを述べ、最敬礼をして教室に入るという状況であった。
毎月8日は「大詔奉戴日」として全校で学区内の神社に参拝し戦勝祈願をした。
隊列を整え正常歩による行進で、出発から帰着までいっさい無言であった。
校庭における閲童式や閲団式、分列式もよく実施された。
体操の時間にはこの基礎訓練が繰り返され、少年団活動と一体になって行われた。
少年団は、16年1月大日本青少年団として、文部省の直接指導下にお かれ
17年4月には大政翼賛会の管下にはいった。
この少年団は国民学校と一体のものであり、 
初等科3年以上の全児童が団員となった。
校長が少年団長を兼ね、訓練の内容は児童の校外生活のすべてにわたっていた。

当時は、多くの家庭に明治天皇や大正天皇、今上天皇・皇后の写真が掲げられ、
敬神崇祖と共に忠君愛国の思想を培う場になっていた。
運動会も強健な身体と不屈な精神を養う体錬科の趣旨にそい、内容は戦時色を濃くしていった。
団体訓練の最もよい機会として分列式や閲童式が取り入れられ、
武道も演じられ、天突体操や相撲体操なども行われた。
ダンスなども時間的なものに内容が変わり、優雅なものは退けられていった。
遠足は春秋二期行われていたが、名称も鍛練遠足と称して毎月行う学校が多くなった。
困苦欠乏に耐え、弁当は「日の丸弁当」に限り、おやつは許されなかった。
隊伍を整え、かなりの距離を歩いて帰ったが、児童は校歌や軍歌を高らかに歌い意気盛んであった。
日ごろの体操の時間にも半裸、はだしで鍛えることが多かったので、かれらの徒歩力は意外に強かった。


防空体制の強化に迫られ、昭和18年11月「岡山県学校防空指針」が制定され、
各学校の防空計画の基準が警戒警報、空襲警報の発令が日増しに頻繁となり、全国主要都市の空襲のニュースもたび重なるようになった。
燈火管制の徹底、防空要員の確保、待避施設の整備等防空態勢には多くの問題が残されていた。
児童や女学校生徒は防空頭巾を携帯して登校した。
女子は活動の便からモンペをはくようになった。
学校では空襲にそなえて待避壕がほられた。
訓練警戒警報や訓練空襲警報のサイレンを合図に、毎日のように訓練が行われた。
学校の建物は敵機の目標になりやすいので少しでも分散させるのが安全であり、家庭へ避難する訓練もたびたび行われた。
ポンプ操法やバケツリレーの消火訓練も行われた。
しかし、学校の防空訓練は御真影の奉護と児童生徒の保護が最重点であった。 
当時の学校日誌をみると、警戒警報も20年の4月ごろからは、連日昼夜の別なく警戒警報、空襲警報が発令され、登下校中も油断できなくなった。
夏に綿入れの防空づきんを頭一ぱいかぶり氏名、血液型を記した布を胸に縫いつけたスフの洋服を着て学校に通った。
工場に動員中の生徒も、警戒警報のたびに避難するので、実働時間は半減していた。


戦争末期の食糧増産運動・集団的勤労作業は、最初、生産的意義よりも教育的意義(生産的効果よりは精神的 効果)が強調されていたが、
しだいに労働力不足を補うようになってきた。
16年に文部省は、青少年学徒食糧 飼料増産運動実施に関する通達を出している。
戦争末期にいたると食糧不足は深刻となり、学校も総力をあげて 増産運動に取り組むこととなった。
昭和17年10月31日付で岡山県は、植物油の増産が急務として、前年と同じように児童・生徒による樹実の採集出荷の努力を要請している。
椿の実をはじめとして、トチ、ナラ、クヌギ、アベマキ、ブナ、カシ、シイ、カシワ類等の植物いっさいにわたっており、
農山村の児童が中心になって採集に努力した。
発送先は小田郡神島外村神島人造肥料株式会社神鳥工場となっていた。

 

学徒隊

昭和19年3月には体鍊科武道 (薙刀)教授要項が決まり、初等科5年以上の女子を対象に実施された。
その年8月には学徒征空体錬実施要綱がだされ、
航空適性強化のために国民学校と中等学校の男子児童生徒は少年航空兵として進むように強く要請された。
20年に入ると、決戦教育措置要綱により学徒体鍊特別措置要綱が決定し、 
その訓練項目は白兵戦技(手榴弾投擲、銃剣術、 剣道、柔道等)と歩走となっていた。
これは、主として国民学校高等科以上の男子を対象とし、
女子も手榴弾投 擲、薙刀、刺突法、護身法等の実戦的訓練が課せられた。
20年5月には戦時教育令が公布され、その第3条により学徒隊が編成されることとなった。
「教職員並=学徒ハ、当面セル戦時緊切要務タル食糧増産、軍需生産及国防、重要研究ニ挺身スル」とその性格を明らかにしている。


・・・

・・・


「学校の歴史第3巻中学校・高等学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

戦時下教育の一面
儀式や学校行事の教育的意義が重んじられるようになり、
戦争に勝つために「必勝の信念」と「堅忍持久」の精神の涵養につとめたのである。
神への戦勝祈願も重要なこととされ、毎月一度は全校をあげて戦勝祈願のための神社参拝もおこなった。
現人神である天皇を中心とした神国主義の形成のために、御真影を安置してある奉安殿や校内にある神祠の清掃は特に重要なことであった。
国民学校になって武道が新しくとり入れられ、児童の体力づくりと精神力の育成のための重要な教科として位置づけられた。
戦意の昂揚のために、日華事変以後は、新しい敵の陣地が陥落するたびに、日本軍の勝利を祝福するために昼は旗行列、夜は提燈行列、学校においてもそれそうおうの祝福をしたのである。


・・・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和の尋常小学校・その2

2024年01月14日 | 学制150年

「尋常小学校ものがたり」  竹内途夫 福武書店 1991年発行


大きくなったら軍人になろう。

そしてせめて金筋一本の下士官になって、恩給がつくまで死に物狂いでがんばろうと心ひそかに思ったものである。 
軍隊には夢があった。食うこと、着ること、住むことの心配がないだけでなく、金持ちも貧乏人もなかったし、大学出も尋常出も一緒だった。
初めは二等兵でも、一年たてば一等兵になれたし、成績次第では上等兵だって夢ではなかった。 
再役を志願して下士官にでもなれば、もうしめたもので、苦しても百姓の辛さに比べたら、どんなことでも辛抱できると思った。
伍長、軍曹と進んで、曹長になればどえらい出世だ。



師範学校


師範学校で教育を受ける生徒には、不況の当時にあってはどれをとっても垂涎の的ともいえる、いくつかの特典があった。
それは学資の支給、教員免許状の附与、就職の保障、兵役の猶予ないし軽減などで、これには特に農村の優秀な人材が集中した。
師範の卒業生で身体が軍役に耐えれば、短期現役兵として徴集され、わずか五ヵ月の訓練を経て陸軍では伍長、海軍では三等兵曹に任官し得て除隊し、
しかも一般なら除隊しても予備役、後備役として長い年月を拘束されるのに、一足とび国民兵役となり、
事実上、永久に銃をとることはないと保証された。

 

代用教員

昔の高等小学辛だけの学歴の教師もいた。
しかし、いちばん多いのは中等学校卒業者であった。
これらの人で検定に合格して、一定の資格をしてから就任する場合は別だが、無資格のままで教職につく場合は代用教員といわれた。
小学校教員では、免許状を有する者を任命することが原則だったが、特別の事情がある時、小学校準教員に代用することができると、当時の制度にあったそうである。

これより少し後のことになるが、昭和14年(1939) 師範出の短期現役制が廃止され、日中戦争に続いて昭和16年に太平洋戦争が始まると、若い教師も一般の若者と同じ ように銃をとって戦場に出るようになった。
そのために教師の不足が生じ、大量の代用教員の登場となった。
各小学校でその中等学校卒業生が代用教員として活躍していた。

終戦前後の教員不足の頃は、履歴書一本、校長の一存、
「明日から来てくれんさい」のひとことで翌日から出勤、正式手続きはあとからでよかった。
だが、いったん採用された代用教員は、優秀な人材が多かった。
それだけに年数を重ねても、はるか年下の師範出の若い教師が、いつでもどこでも上位を占めていくのは口惜しかったことであろう。

 

「愛国第〇号」機

五銭や十銭の貯金が国防献金に変わり、飛行機が次々と軍に献納され、「愛國第何號」とそのつど命名された。
非常時、非常時、前代未聞の非常時来ると叫ばれ、教材として鎌倉時代の元寇の史実がよく取り上げられた。
あの時の国難も、満州における日本の生命線を侵すこんどの事変もまったく同じだから、
全国民が一丸となって、元寇の時のように、国難排除に当たらなくてはならないと教えられた。
元寇は元軍が来襲し、こんどの事変は日本軍が支那の国土を侵して戦っているのに、誰もこれを咎めなかった。
それを口にできる世の中ではなかった。
三年生以上のどの教室にも、満州国の大きな地図が貼られ、教師の口からやたらと満州の話を聞かされたが、
つまるところは、この地で戦う皇軍将兵の労苦に感謝し、これに報いるにはどうすべきかに落ちついた。


一礼

きちんと挨拶することを怠らなかった。
学校に着くと校門で 一礼、
顕彰した校長頌徳碑に一礼、
さらに五、 六歩進んで二宮尊徳少年像に一礼、
また三十歩ほど進んで郷土の戦没軍人の武功を称えた忠魂碑に敬礼、
そして運動場の中央では奉安殿に向かって最敬礼して、ようやく教室に入れた。

・・・

・・・

「笠岡小学校百年史」

男子校時代の思い出

どんな教育を受けたか

スパルタ教育の一話につきる。
半ズボンで校内はすべて裸足で走り回ったものだ。
当時、先生はみんなネンプチ (竹の根)を持っていて、悪いことをするとこれでこつんとたたいた。
すると、こぶが3つぐらい一度にできた。
入学式のとき、笠神社へお参りして修身の教科書をもらった記憶があるんだ勧学祭といって、昭和初年頃からはじまった。
昭和4年ごろからかな、毎月はじめに笠神社へそろって参拝しはじめたのは。
太平洋戦争にはいってからは毎月8日に変わったと思う。(興亜奉公日→大語奉日)。
学校神社ができたのは昭和5年だった。
遠足はあったよ。 高島へ行ったことがある。 (高島宮建跡へおきよ丸で行った。)
海洋少年団ができたのは昭和8年ごろだった。
40名ばかりの団員がカッターをこいだ。
泳げない者は、先生が海へ投げこんだりした。その後、航空少年団ができた。
運動会は女子校の運動場を借りて合同でやっていた。1分もくるわずに演技をした。
学級編成は、忠・孝・敵の3組だった。

(笠岡町立男子尋常高等小学校校門・昭和2年)

・・・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和の尋常小学校

2024年01月12日 | 学制150年

・・・

(笠岡市立大井小学校100周年記念誌)

・・・

奉安殿

「尋常小学校ものがたり」  竹内途夫 福武書店 1991年発行

白砂青松の中の奉安殿
天皇陛下と皇后陛下の御真影を奉安する建物を、奉安殿と呼んでいた。
運動場の東側に隣接した水田を埋めたてた敷地に、建坪三坪ぐらいの鉄筋コンクリート造りで建てられ、その頃では珍しかった手動式の鉄のレャッターがついたモダンなものだった。
この奉安殿は村の部落の酒造家が、千円という大金を投じて建立寄贈したものと聞かされていた。
敷地は、周囲に土塁を巡らし、土塁の上には榊に似た木の生垣が設けてあった。
内庭には石英の白砂が一面に敷き詰められ、植え込みの黒松の翠がこれに映えて、運動場の賑わいをよそに、森厳幽寂とまではいかなくても、いかに神々しい別世界を作っていた。
ふだんはこの聖域に立ち入ることはできなかった。
月に 二、三回、高学年の女の子が身を清め心を正して清掃に奉仕したが、作業はすべて厳冬を除いて素足で行なわれ、無駄口を聞くことはできなかった。 
なぜ女の子だけが当番になったのか。
たぶん神に仕える神子の例に倣ったものであろう。
運動場で遊んでいる子が、あやまってボールをこの聖域に飛ばすことがよくあったが、そういう時は担任か週番の教師に願い出て、正面の鉄の扉を開いて取ってもらうのである 。


朝夕の登下校の度に、この奉安殿の前では一旦停止、正面を向いて不動の姿勢をとり、そしておもむろに三秒間の最敬礼をして通り過ぎた。
やはりその頃は、天皇は現人神だった。
敗戦とともに、奉安殿は解体された。

・・・

非常時日本の教育
国のため、大君のため
昭和6年(1931) 9月に満州事変が勃発してからは、学校教育も、それまでの国家主義的傾向がますます強まって、忠君愛国の軍国主義教育がより鮮明になってきた。
校長以下全教師全児童が支那軍の暴虐を憎み、断固膺懲の鉄槌を下すべしと力んだ。
暑ければ、炎熱地を焦がす満州の将兵の苦闘を偲んで耐え、寒ければ酷寒零下30度の満州の広野に戦う兵士の辛苦思って耐え抜いた子供たちであった。
天皇や国家に対する意識の高揚も、この事変を機にますます盛んになった。
何事につけても国のため、大君の御ためが罷り通った。
学校の諸行事に日の丸と君が代はつきものだったが、
これに皇居の遥拝と、皇軍将兵に感謝の黙が加わり、最後は必ず「大日本帝国万歳」が三唱された。

・・・

修身の授業と内容
最もおもしろくなかった授業
修身は、児童の徳性を涵養し、道徳の実践を指導する教科で、教育勅語の趣旨に基づき、国民精神の涵養や、国民道徳 の実践普及を目的としていた。
この目的に応じ、古今東西の聖人偉人の言行を中心とした例話や訓辞、格言などが教材となった。
この修身の基本精神は、いうまでもなく忠君愛国の思想であって、
天皇と国家にとってよりよき国民になるためのものとされた。
したがって、いかに国のため、大君の御ためになるかが、道徳的価値観の基準になった。
だから子供たちは、こういう行いは国のためになるだろうか、こういう行為は大君に対し奉り不忠になるのではないかと常に考え、反省を求められたものである。
それにしても、このくらいおもしろくない勉強はなかった。

・・・

(昭和8年「修身」の時間)

・・・


 「ビジュアル版 学校の歴史」  岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行


興亜室
1931(昭和6)年に満州事変がおき日中戦争に入る頃から、各小学校には「日の丸教室」という教室が置かれるようになりました。
室内には大きな 「国旗」 が掲げられ、「支那」 (中国を侮辱した言い方) の地図と占領した場所には 「日の丸」
が掲げられていました。そのほか神話掛け図も飾られていました。

日中戦争が拡大すると地域から出征した兵士からの「戦利品」が飾られ、中国の子どもたちが書いたという作品 (写真) も展示されました。
1941(昭和16)年に国民学校に変わる頃からこの教室は「興亜室」と呼ばれるようになりました。
地図も東南アジア全体のものとなり、南方の島の「ヤシの実」やジャワ、ボルネオ島の民芸品も飾られました。
また、戦死した人の鉄兜や血染めの腹巻きなども展示され、
 「国のために命を捨てるほまれ」を教える場となっていました。 (渡辺)

・・・


「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

 (大正元年~昭和10年) 
尋常小学校・高等小学校
義務教育修了者の高等小学校への進学率の上昇および学齢人口の急速な膨張によって、
高等小学校の普及は尋常小学校への併置という形で増加した。
義務就学が六年に延長され、その就学率も100%に近づき、従って次の段階としての高等小学校の著しい拡充である。

・・・

この時期盛んに小学校制度問題として政策の俎上にのぼり、また一般に論ぜられたのは義務教育年限の延長であった。
臨時教育会議でも、これについて審議され、その延長が希望されながらも、市町村財政の負担、教員の供給難、児童保護者の負担増等を理由に、時期尚早であるとの答申がなされた。
しかしその後義務教育延長は政府においてもその具体案がしばしば検討され、帝国議会でも決議・建議が行われた。
大正13年、江木文相は、義務教育八年制実施案を立案し、文政審議会に「小学校令改正件」を諮詢したが、撤回となった。
さらに昭和11年平生文相は、高等小学校の義務化を内容とする義務教育法案を準備したが、これも内閣更迭に遭って挫折した。
このように義務教育年限の延長は実現をみなかったが、
当時すでに就学率はほぼ99%に達し、高等小学校への就学者も著しく増加し、その内容も拡充の段階に達していた。


・・


 「ビジュアル版 学校の歴史」  岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行

戦争第4期の国定教科書

満州事変後に改訂された第4期の「尋常小学読本巻一」は「サイタ読本」と呼ばれました。
サクラの絵のページをめくると
「ススメススメへイタイススメ」という内容となり戦時色が強くなり、神話も教材として重視されました。

・・・


「吉田小学校百年史」 笠岡市立吉田小学校  平成12年発行 

藁草履をはいて通学
吉田小学校の思い出

昭和6年3月吉田尋常高等学校の卒業生です。
当時の教育は、知的教育は素より, 明治天皇の教育勅語を基本とした, 修身科道徳教育 が主体であり、校長先生が担任しておられた。 
特に忠君愛国, 親孝行, 忠孝は一つである事を教えられた。
純真な少年時代に,この様な教育を受けて奮起しました。 
丁度在学中に満州事変が始まり, 出征兵士が出発される時は, 先生の引率で吉田駅までお見送りしました。 
勇しい兵隊さんを送る度に, 大きくなったら, 御国の為に尽くす事を少年の心に誓ったものです。
12名の同級生は, 校長先生の教えを真面目に守って, 先きの大戦に戦死されました。

・・・

「小楠公の母」像(笠岡町立女子尋常高等小学校「笠岡小学校百年誌」)

・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

結核で死ぬ

2024年01月12日 | 学制150年

母はたまに女学校時代の同級生で、自分よりも頭も容姿も良い人が、何人も
「結核で若い時に死んでしまった」
と、ぽろりと話すことがあった。
気の毒なという意味と、美人でなくてもよいことがある、と思っていたのかもしれない。

それは自分への慰めだけでなく、美人は早く死ぬと信じていたようにも感じた。
しかし実際は、容姿に関係なく”不治の病”で若くして、男性も女性も死んでいった。

 

・・・

「尋常小学校ものがたり」  竹内途夫 福武書店 1991年発行


「ハイビョウ」を恐れる子供たち

都会に出ていった少年少女たちは、中途で胸を結核に冒さ れる者が多かった。
その頃の奉公人は、いったん発病したら最後、すぐ解雇されて親元に帰されるのがおちだった。
今のように、雇い主が役に立たなくなった病人を、長いこと面倒を見てくれる時代ではなかった。
いわゆる社会保障や福祉に類するものはいっさいなく、
クビになれば仕方なく、こっそりとふる里のうす暗い我が家に帰ってきた。
そして破れた障子が揺れる奥のひと間で、時たま訪れる村医者の形ばかりの診察を受けながら、春がいつくるかわからないままに、季節の移ろいに身を委ねた。

結核患者のいる家は、真冬の寒い日でも障子を開け放していて、夜もこうこうと電灯の光を放っているのが遠くからのぞめたから、「肺病やみ」がいる家だとすぐにわかった。
寒くても絶えず外の空気にさらして、菌が家の中にこもるのを 防いだのであろう。
これは同居の家族への伝染をおそれてのことで、患者自身、構ってくれない家族への不満は、もうあきらめの中に消えていたし、
その家族の方も、何の役にも立たない者を、いつまでも構うだけの余裕はなかった。
肺病はうつる病気なのに、どうして遊病院に入れないのだろう。
田圃の中にいくから見える幾棟もの避病院は、白いペンキ塗り、四面がガラス窓のモダンな建物で、生い茂る草の緑に映えて美しかった。
空気はいいし、日光がふんだんに差し込む温室のような病室に入れたら、肺病など直ぐ治ってしまうのにといつも思ったが、この建物に人が居るのを見かけたことはついぞなかった。
倹約、倹約とうるさく言う大人たちは、なぜこういう無駄なことをするのだろうと、先生に聞いたら、
「肺病は伝染病とはいうても、赤痢やコレラなどとは違って簡単にうつるもんじゃないから、わざわざ避病院に入れる必要はないと法律で決まっとるんじゃ。
だいいち、肺病やみをいちいち入院さしようたら、避病院がなんぼあっても足りや せんのじゃ」

尋常科の子供には、発病する者はあまりいなかったが、高等科に進むと肋膜炎ということで、長期欠席をする児童がいた。
もともと家族の患者から感染する例が多いことは、親子や兄弟姉妹で発病する家が多いことでわかった。
これは患者と生活を共にすることにより、感染の機会が多く、
それに当時の食生活の貧しさからくる栄養不足が、病気に対する抵抗力を弱め、発病に拍車をかける結果となっていたのである。
結核に関する医学の進歩発達は戦後特に著しく、優秀な医薬品の開発による化学療法によって、結核で貴い命をおとす者はいないといわれるまでになったが、戦争前は実に多くの人々が結核で死んでいったのである。


・・・

「梶原山のくらし」  梶原山(福山市引野町)のくらしを記録する会  2012年発行

福山回生病院会長 村上貞夫さん(大正10年生まれ)

結核

病院勤めをしていても、内科の患者で主に手のいるのはほとんど結核なんよ。
戦争中、国民はほとんど栄養失調になってしまっていた。
結核が感染していても無理をするもんじゃけえ、こじらせて本当の肺結核に移行してしまった。
そんな人がいっぱいおった。
どこでも、ほとんどの家に一人や二人はいた。
結核にかかると、皆死んでいった。

内科医として仕事をするには、
結核をなんとか処理しなければどうにもならん、と思うた。

・・・


「新修倉敷市史第六巻」 倉敷市 平成16年発行


疾病と医療施設

結核は、結核菌の感染による慢性伝染病で、肺結核・腎結核・腸結核などを総称した名称であるが、特にことわらない限り肺結核をさす。
第二次大戦後の結核医学の著しい発展をみるまで決定的な治療法のない病気であった。 
病気そのものは古くからあるが、イギリスの産業革命期に多くみられて注目された。
わが国でも産業革命の進展に伴い、都市化・集団化した生活の中で流行しており、農村にまで及んだ。
『女工哀史』は劣悪な労働条件で結核に冒され解雇されて帰宅させられていく女工の姿を描 いている。
決定的な治療法のない結核への対応は、予防と伝染防止に主眼が置かれた。

患者発生の場合、学校・病院・製造所・船舶発着待合所・劇場・寄席・旅店などが地方長官の指示に従うことが規定された。
これをうけて倉敷警察署では関係の業者を同署に召集して注意を喚起した動きが見られる(「新報」明治34.9)。

大正2年(1913) 北里柴三郎が首唱して日本結核予防協会が設立された。
さらに旧「結核予防法」(大正8)が制定された。
これは患者発見の場合の医師による届出、消毒などによる取り締まり的役割を重視したものであった。 
このような施策の動向の中で県下では赤十字社にかかわる肺病患者療養所設置問題、笠岡町の古城山の地が浮上し、翌年1月から着手することになった。


結核患者には繊維産業における女子従業者の罹患率が高かった。
児島・都窪地域には他の地方から働きにやってきた人も多く、結核罹患が判明すると解雇のうえ郷里に帰された。
そのため帰郷した罹患者が農村部で結核の温床となった。
また農村は多くの兵士を供給しており、労働力と兵力確保の障害となることから結核は「亡国病」と呼ばれその対策が急がれた。
浅口郡都窪郡でも結核予防検診を地区別に行っており、官民あげて撲滅の宣伝に取り組んだ。
大正12年4月17日より結核予防デー(週間)としてポスター・宣伝ビラを接客場・工場に配布して注意を喚起した。
昭和3年の春にも結核予防週間が行われており、倉敷警察署では学校へ啓蒙取り組みを依頼して
児童作文募集、予防宣伝ビラの配布を企画している。
この企画はのちまで行われ、岡山では芸者・活動写真常設館(映画館)の音楽隊も街頭に出て協力した。
県下の患者は農村に多く、約2万人で男性が女性より多く、年齢別では20歳~30歳。

・・・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実業学校

2024年01月12日 | 学制150年

昭和の初期、父の4人兄弟の学歴。


①父(農家の長男)尋常小→神辺実業学校
②おじ(農家の次男)尋常小→福山工業学校
③おば(農家の長女)尋常高等科→増川高等女学校
④おじ(農家の三男)尋常小→笠岡商業学校


管理人が城見小学生の時、家族の調査表に親の学歴の欄があり、
「高小」「神辺実業」が多かった。
「笠岡商業」は稀、田舎では笠商は最高学歴の感じで、ほとんどが「高小」卒または「神辺」卒だった。


おばは高等小学校高等科を卒業しているが、
「(笠岡)女学校に行きたかったが、おばあさん(母親)が行かしてくれなんだ。
高小の時に、行ってもいいと言われたが、同級生に遅れて入るのは抵抗があり(県外の)
増川に行った。」と話していた。
増川には3年生で入学となる。

 

(相撲部・昭和5年 「創立90周年記念誌」 笠岡商業高等学校 平成3年発行

・・・

「学校の歴史第3巻中学校・高等学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

 実業学校

実業学校は、
農業学校・工業学校・商業学校等の中等教育段階の職業教育機関の総称である。

昭和期の実業学校

昭和期は第一次大戦後の反動としての不況から始まり、金融恐慌とともに輸出貿易の杜絶を生み、産業全体が極度の不振となった。
就職難は上級の学校ほど激化し、中等学校生徒の中退が増加してきた。
このような状況に対して、文部省は昭和5年に実業学校の修業年限を最低3ヵ年から2ヵ年に短縮して低度実業教育の振興を図る中等実業学校の諸規程の改正を行っている。
従来の実業教育振興策が、修業年限の延長と学校数の増加という教育総量の拡大をめざしてきたのに対し、この規程改正は逆の方向を示したのである。
しかし、低度実業教育の振興というのは、結局実業教育の衰退を招き、甲種実業学校に比し乙種の落ち込みが著しかった。
世界恐慌の影響による農村の慢性的不況、工業生産の低落、失業者の増大等の状況には、教育制度の改革の論議が起こってくる。
昭和十年に設置された実業教育振興委員会の答申は実業学校制度の改革についてはふれていなかったが、低度実業教育の振興のために、社会教育的な機会を活用することについて、大胆な提案を行った。

・・・

日中戦争の勃発により、文部省は実業教育振興委員会に、再度実業教育の方策を諮問した。
委員会の答申は前回の社会教育的な低度実業教育の振興策を改め、軍需産業の拡充のための実業学校の全面的増設という積極策を示した。
戦争が進展するにつれて、軍需産業の必要に応じて、実業学校なかんずく工業学校の増設が行われ、学校は産業に従属して人材を確保する機関としての性格をあらわにしていく。
この時期の実業教育問題の中心は、工業教育の拡大であった。

 

・・・

文部科学省HP

実業学校の新しい位置づけ
昭和10年代にはいってからは時代の傾向と国家の新しい情勢に対応して実業学校は重要な改編をする時期に当面することとなった。
この時期の教育政策全般を方向づけたものは教育審議会であったが、中等教育に関する政策の具体的なあらわれは18年に公布された「中等学校令」であった。これによって実業学校は中学校、高等女学校とともに新しい中等学校制度のなかに統一されることとなった。
このように新しく位置づけられた実業学校については、同年に公布された「実業学校規程」によってその種類は、農業学校・工業学校・商業学校・商船学校・水産学校・拓殖学校その他実業教育を施す学校とした。
また修業年限は国民学校初等科卒業程度を入学資格とするものは4年、高等科卒業程度を入学資格とするものは3年と定めた。

なお、この際の改革において実業学校と中学校および高等女学校との間の生徒の転学について相互に便宜を図るべきことを規定した。
従来全く切り離されて構成されていた普通教育と実業教育とを結びつけようとする方策を示したものであった。
このことは、明治30年代における学校制度の基本方策において、中学校の性格を高等普通教育を施す場所として規定し、そのなかから実科教育の思想を排除していた。
それ以来、長い間の伝統によって分離していたことに対して、一つの新しい問題を提供したものとして注目される。


・・・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本一早い豆まき【福まき】に行く 2024.1.7

2024年01月08日 | 令和元年~

場所・広島県福山市丸之内
日時・2024年1月7日

 

日本一早いのか、どうかは不明だが
自称「日本一早い豆まき」に”福”を求めて行った。

 

 


今年は蜜を避けて、
1回の定員600名で、3.000名定員の
10:30、11:30、12:30、13:30、15:00と5回の豆まきがあった。

 

 

 

会場の福山城には10時前に着いたが既に2回目の券になっていたので参加せず、
「とんど」の見物を楽しんでから去った。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「田舎のバス」

2024年01月08日 | 昭和の歌・映画・ドラマ

城見小学生の時、学校帰りにバスを見ると「田舎のバス」をみんなで歌った。
田舎のバスは、
ほんとに・・・オンボロぐるまだった。
ほんとに・・・タイヤはツギだらけだと思った。
ほんとに・・・窓は閉まらない。これは汽車もそう。
ほんとに・・・デコボコ道を
ほんとに・・・ガタゴト走っていた。

・・・

「田舎のバス」

田舎のバスはオンボロぐるま

タイヤはツギだらけ 窓は閉まらない

それでもお客さん我慢をしてるよ

それはわたしが美人だかあら


田舎のバスはオンボロぐるま

デコボコ道をガタゴト走る

 

「皆さま、毎度ご乗車くださいまして有難うございす。
早速ですが、只今から乗車券のお切らせを願います。
アンレマしょうがねー牛だなー
・・・」

 

田舎のバスはオンボロぐるま

デコボコ道をガタゴト走る


・・・


城見を走るバスは東西に、笠岡駅前⇔福山駅前、の路線だった。
用之江と大冝を走る。
茂平にバスはない。
だからオンボロバスでも、バスが通る用之江や大冝がうらやましかった。


・・・

 

小学生か中学生か高校生の時、家のラジオがかかっていると
「パパいってらっしゃい」というラジオドラマが学校に行く前の時間に放送されていた。
主題歌を歌うのは・・・中村メイコ
主役も・・・中村メイコ
子役も・・・中村メイコ
端役も・・・中村メイコ
無理をしながら役によって声を分けるのが、聴いていて面白かった。
”七色の声”と言われていた。

 

子どもの頃から知っていた「中村メイコさん」が昨日(2024.1.7)亡くなったと報道された。
亡くなる一週間前まで芸能の仕事をしていたそうだ。
89歳だった。

・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「女学校と女学生」女学生文化 

2024年01月06日 | 学制150年

”皇国の処女””良妻賢母”など、高等女学校の指針は片ぐるしさを感じるが、
進学を前提としない学校生活は、自由な勉強や青春があったようにも思える。

 


・・・
「女学校と女学生」 稲垣恭子 中公文庫 2007年発行


高等女学校

高等女学校は、1899(明治32)年の高等女学校令によって、
男子の旧制中学校に対応する形で、「女子須要(しゅよう)ナル高等普通教育」を行なう中等教育機関として制度化された学校である。
「国語」や「外国語」、「歴史」「数学」などの一般教育科目に「家事」「裁縫」等女子特有の科目を加えたカリキュラムが設定され、
女学生はそこで尋常小学校を卒業してから三~五年の間を過ごしたのである。

・・


1899(明治32)年には、女子の尋常小学校への就学率がまだ60パーセントほどであったが、
高等女学校令によって各道府県に最低一校の高等女学校の設置が義務づけられてからは、高等女学校への進学も大きく増加していくことになった。
尋常小学校を卒業してから進学する経路としては、高等女学校以外にも女子師範学校や実業学校などがあった。
しかし、中でも女子の一般普通教育を目的とした高等女学校は人気を集め、
とくに大正~昭和期にかけては学校数、生徒数ともに大きく拡大していった。
1910(明治43)年に高等女学校令が改正され、
翌11年以降、「裁縫」や「家事」など家政に関する科目を多く配置した実科高等女学校が設置された。

・・


1905 (明治38)年にはまだ5パーセントにも満たなかった高等女学校への進学率が、
女子の尋常小学校就学率がほぼ100パーセントになる1910年あたりから徐々に高まり、
1920(大正9)年には9パーセント、1925(大正14)年には15パーセント近くまで上昇し、ほぼマス段階に入っている。
学校数、生徒数の変化で見ても、1910年には193校であった高等女学校数が、1920年には二倍近くに増加し、
在籍する生徒数も1910年から1925年までに五倍近くまで膨れたが、
それは高等女学校に在籍する生徒数が同時期の男子の中学校在籍者数を上回るほどの勢いだったのである。


・・

一方、高等女学校を卒業した後にさらに進学する女子高等師範学校や女子専門学校も明治末から大正にかけて創設されていったが、
実際にこれらの高等教育機関に進学したのは、戦前期を通して一パーセントに満たないものであった。
その意味では、女子にとっての実質的最終教育機関は、高等女学校だったということができるだろう。


・・

国語
「国語」は、「家事」「裁縫」と並んで最も多くの時間数を占めていた中心的な科目であったが、 女学生が最も好きな科目も「国語」であった。
先の調査でも、女学校時代に好きだった科目として「国語」を挙げた人は、全体の約五二パーセントとだった。

裁縫嫌い
「国語」が女学生に人気があったのとは対照的に、女学校教育を支えるもうひとつの重要な柱である「裁縫」の方は、それほど好かれてはいなかった。
先の山本の調査でも、 「裁縫」が嫌いな生徒は学年が上がるごとに増えていき、四年生では「理科」「数学」に次いで三番目に嫌いな科目に挙げられている。


・・

実科高等女学校
各地方につくられていった実科高等女学校のカリキュラムは、「裁縫」を中心に構成され、1911 (明治44)年当初 実科高等女学校における「裁縫」の授業時数は14~18時間と、
高等女学校のほぼ四倍近く設定され、実科高等女学校の全授業時数の40~50パーセントを占めていた。
しかし、全国で188校の実科高等女学校が設置されていた1919(大正8)年には、 
全国高等女学校長会議で実科高等女学校廃止が決議され、その後もたびたび実科廃止論議論されたのちに、
1943 (昭和18)年に実科の名称は廃止され、高等女学校として一本化されることになったのである。
その背景には、高等女学校の教育をめぐる「実用」と「教育 」の問題や、さらに女学校の序列化や階層性の問題が存在していた。
実科女学校のほとんどは、高等女学校に改組されているという。

・・


女学生文化の広がりとサブカルチャー化
このような「女学生文化」が地方の女学校も含めて一般化し大衆化していくのは、女学校が拡大していく1920~30年代あたりからである。
高等女学校の大衆化は、女学生に制度化された「思春期」を提供したが、その中で女学生たちは、
受験や進学準備に結びついた男子の学生・生徒文化とは違った独特の「女学生文化」を形成していった。
彼女たちの多くは、進学準備の受験勉強をする必要がなかったために、それとは直接結びつかない読書や稽日事などにも関心を広げていった。
新中間層の文化的嗜好や教養と対応する折衷的な文化は女学生文化」の特徴でもあったが、
この時期にはさらに、少女雑誌などのメディアを中心とする大衆モダン文化を混ぜ合わせた独特の「女学生文化」が創られていったのである。

ところで、このような「女学生文化」や「女学生」に対しまざまな批判や揶揄もあった。
よく知られているように、女学校の教育の正当性を保持する 重要な根拠になっていたのは、いわゆる「良妻賢母主義」であった。
高等女学校令において高等女学校の教育目的は、「女子=須要ナル高等普通教育ヲ為ス」とされていたが、
それは 「高等女学校の教育は)賢母良妻タラシムルノ素養ヲ為スニ在リ。」というように、
良妻賢母主義をその柱として明確に位置づけたものであった。
それにともなってカリキュラムや授業時数についても、
男子の旧制中学校と比べると、「家事」、「裁縫」といった女子のみの学科が新設され、
「修身」や「音楽」の時数が多く設定される代わりに、「外国語」や「数学」、「理科」などの時数は少なくなっている。
高等女学校の教育の目的は、家庭婦人としてふさわしい知識や技能、態度の養成であることが明示されたのである。

・・・

「学校の歴史 第3巻 中学校・高等学校の歴史」 仲新 第一法規出版 昭和54年発行

 高等女学校

女学校というからには、当然、女子のみの入学する学校であろう。
ごくあたりまえのことだが、一方に女学校が 存在するなら、他方に男子のみを入学させる男学校が設立されていなければならない。
つまり、女学校の存在は、性に対応して、教育が分離していることを象徴的に示す現象である。
性に対応した教育の分離が、なぜ要請されたのか、つまり、性差観についての歴史的な流れに関連させて、考察する必要があろう。
女子教育の場合、第二次大戦前と以後とでは、断絶とでもいうべき格差が存在する。
わが国の場合、戦前と戦後の対比は、あまりにも著し い。
ということは、日本の近代は、明治から始まるのが定説だが、
少なくとも、女子教育にとっては、第二次大戦後
〝近代〟の幕が切っておろされたのかもしれない。

 

・・・

「笠岡高校70年史」 笠岡高校 昭和47年発行


昭和3年県立移管、
学園生活はますます活況を呈し、その豊かさを加えていった。 
生徒はその薫陶の下に婦徳を涵養し、学業に励んだ。 
卒業後上級学校へ進むものも漸次増加して来た。 
しかもこの学園生活の中で大きな役割を果したものに千鳥会の活動があった。 
千鳥会の年間行事として主要なものに、文芸会体育会・臨海学校等があった。
文芸会は昭和3年より3月6日の地久節(ちきゅうせつ=皇后誕生日)に行われるのが例となった。
体育会は10月下旬か11月上旬に行われるのを例とし文芸会とともに毎年多数の参観者を集めた。
臨海学校も回を重ねたが、不況に見舞われたため、昭和5年以降中止となった。 
8年復活し、以後戦時体制に入った頃までつづけられた。

学校行事として昭和2年より毎年7月早縫いを競う裁縫競技会が行われ、第35回創立記念式のあった11年には全校生徒の競技会が開かれた。 
千鳥会の活動の中で最も関心をもたれたものに運動部の対外試合があり、 
昭和10年(1935)頃までは庭球が大いに活躍した時代で、排球もまた成長をつづけ後年その飛躍時代を迎えた。 
昭和11年(1936)以後は学校長の方針を反映して庭球排球両部が目覚しい活躍をつづけたほか、
卓球部や新たに登場した籠球部 陸上競技部等も活発となり、スポーツ熱は全校にみなぎった。

・・・


母の生年月日から逆算すると、
母が井原高女へ通学していたのは昭和8年4月入学、
昭和13年3月卒業ということになる。

母の3学年上の人、(2年間学校が重なっている人)の手記

「創立100周年記念誌 萩の道」  井原高校 2004年発行

不況、中途退学者多く  昭和10年卒
昭和5年4月、晴れの女学生になったの者は102名くらいだった思います。
私達の在学中の昭和5年から10年は社会が大変な経済不況の時でございまして、
春・夏・冬の休暇明けに登校してみますと、3人とか5人とか退学届けを出されて櫛の歯がかけるように生徒数が少なくなり、卒業の時は65人になった事でございます。

昭和7年の5・15事件の時は3年生の時でしたが、
若い歴史の先生より、
血気にはやった青年将校の事を昭和維新の如くの熱弁を聞いて、
うら若き乙女心にこの事件を美しい快挙と印象づけられて、
日本軍国主義への道をスンナリと抵抗なく入って行ったような気がします。

また人見絹枝女史が女学校校庭に来て走られました。
私達も後をついて走りましたが、その韋駄天にはとてもついていけなかったことを憶えています。
1年生から5年生までが一斉にする早縫い競争と常用漢字を書く大会がありました。
1年生は一ツ身、2年生と3年生は三ツ身か四ツ身、5年生は本縫というように講堂と教室に集まって、同時に縫い始めて早く奇麗に仕上げる競争です。


・・
母の1学年上の人の手記

私の故郷 井原高校

私は昭和7年4月井原高等女学校へ入学、昭和12年3月に卒業させていただきました。
2年生の頃から新校舎の建設が実現できることになり、
私たち生徒も校地の整地、清掃作業に度々でかけ鍬をふるい木切れも運んだりしました。
新校舎へ移ってからは、机・椅子・柱・ガラス磨き、
校庭の芝生・庭木の植付け・花壇の造成、運動場に砂場・テニスコート等を作る等心を込めて作業に励みました。昭和12年卒

・・・

母より2学年後輩の人の手記

師弟一丸の校地美化

入学して間もなく学校は移転することになった。
井原小学校の所の古い校舎より舞鶴山麓の現在地まで蟻の行列のように机等を運んだ。
移転はしても校内は整備されておらず、私たちは毎日のように河原へ砂利を拾いに行き、各自袋に入れて背負って持ち帰った。
運動場の土手に蔓バラが植えられ、校門脇には萩が植えられた。
たわわに咲く萩の花は井原高女の象徴とさえ思った。
入学して満州の国歌を習い愛国行進曲を習い、
勉強の合間に慰問袋を作って戦地に送ったり、
兵隊が着る毛皮の縫合作業を行ったり、
農家へ勤労奉仕の稲刈りに出掛けたり、在学中の奉仕作業は次第に外へ向けられていった。
(昭和15年卒)

・・・

「創立100周年記念誌・萩の道」 井原高校 2004年発行

昭和16年春入学生

さて当時の女学生は、井原小学校同年女子70数名中、20名程度しか入学出来ないエリートであった。 
教職員の質は高く、大学へ栄転される先生もあった。 
礼儀や躾が厳しく、上級生は先生と同じくらい怖がられていた。 
学校行事では、厳粛な四大節、
中でも皇后陛下の誕生日を寿ぐ優雅で気品溢れる地久節
全校生徒一斉参加の「書取」「速縫」競技
一糸乱れぬダンスに観衆を魅了した運動会など、
懐かしくも さわやかな想い出の一こまである。

このような学園生活は次第に戦時色濃厚となり、 
4年生の夏から動員されていた軍需工場で、終戦まで働いた。 

・・・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする