しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

実業学校

2024年01月12日 | 学制150年

昭和の初期、父の4人兄弟の学歴。


①父(農家の長男)尋常小→神辺実業学校
②おじ(農家の次男)尋常小→福山工業学校
③おば(農家の長女)尋常高等科→増川高等女学校
④おじ(農家の三男)尋常小→笠岡商業学校


管理人が城見小学生の時、家族の調査表に親の学歴の欄があり、
「高小」「神辺実業」が多かった。
「笠岡商業」は稀、田舎では笠商は最高学歴の感じで、ほとんどが「高小」卒または「神辺」卒だった。


おばは高等小学校高等科を卒業しているが、
「(笠岡)女学校に行きたかったが、おばあさん(母親)が行かしてくれなんだ。
高小の時に、行ってもいいと言われたが、同級生に遅れて入るのは抵抗があり(県外の)
増川に行った。」と話していた。
増川には3年生で入学となる。

 

(相撲部・昭和5年 「創立90周年記念誌」 笠岡商業高等学校 平成3年発行

・・・

「学校の歴史第3巻中学校・高等学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

 実業学校

実業学校は、
農業学校・工業学校・商業学校等の中等教育段階の職業教育機関の総称である。

昭和期の実業学校

昭和期は第一次大戦後の反動としての不況から始まり、金融恐慌とともに輸出貿易の杜絶を生み、産業全体が極度の不振となった。
就職難は上級の学校ほど激化し、中等学校生徒の中退が増加してきた。
このような状況に対して、文部省は昭和5年に実業学校の修業年限を最低3ヵ年から2ヵ年に短縮して低度実業教育の振興を図る中等実業学校の諸規程の改正を行っている。
従来の実業教育振興策が、修業年限の延長と学校数の増加という教育総量の拡大をめざしてきたのに対し、この規程改正は逆の方向を示したのである。
しかし、低度実業教育の振興というのは、結局実業教育の衰退を招き、甲種実業学校に比し乙種の落ち込みが著しかった。
世界恐慌の影響による農村の慢性的不況、工業生産の低落、失業者の増大等の状況には、教育制度の改革の論議が起こってくる。
昭和十年に設置された実業教育振興委員会の答申は実業学校制度の改革についてはふれていなかったが、低度実業教育の振興のために、社会教育的な機会を活用することについて、大胆な提案を行った。

・・・

日中戦争の勃発により、文部省は実業教育振興委員会に、再度実業教育の方策を諮問した。
委員会の答申は前回の社会教育的な低度実業教育の振興策を改め、軍需産業の拡充のための実業学校の全面的増設という積極策を示した。
戦争が進展するにつれて、軍需産業の必要に応じて、実業学校なかんずく工業学校の増設が行われ、学校は産業に従属して人材を確保する機関としての性格をあらわにしていく。
この時期の実業教育問題の中心は、工業教育の拡大であった。

 

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文部科学省HP

実業学校の新しい位置づけ
昭和10年代にはいってからは時代の傾向と国家の新しい情勢に対応して実業学校は重要な改編をする時期に当面することとなった。
この時期の教育政策全般を方向づけたものは教育審議会であったが、中等教育に関する政策の具体的なあらわれは18年に公布された「中等学校令」であった。これによって実業学校は中学校、高等女学校とともに新しい中等学校制度のなかに統一されることとなった。
このように新しく位置づけられた実業学校については、同年に公布された「実業学校規程」によってその種類は、農業学校・工業学校・商業学校・商船学校・水産学校・拓殖学校その他実業教育を施す学校とした。
また修業年限は国民学校初等科卒業程度を入学資格とするものは4年、高等科卒業程度を入学資格とするものは3年と定めた。

なお、この際の改革において実業学校と中学校および高等女学校との間の生徒の転学について相互に便宜を図るべきことを規定した。
従来全く切り離されて構成されていた普通教育と実業教育とを結びつけようとする方策を示したものであった。
このことは、明治30年代における学校制度の基本方策において、中学校の性格を高等普通教育を施す場所として規定し、そのなかから実科教育の思想を排除していた。
それ以来、長い間の伝統によって分離していたことに対して、一つの新しい問題を提供したものとして注目される。


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