しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

結核で死ぬ

2024年01月12日 | 学制150年

母はたまに女学校時代の同級生で、自分よりも頭も容姿も良い人が、何人も
「結核で若い時に死んでしまった」
と、ぽろりと話すことがあった。
気の毒なという意味と、美人でなくてもよいことがある、と思っていたのかもしれない。

それは自分への慰めだけでなく、美人は早く死ぬと信じていたようにも感じた。
しかし実際は、容姿に関係なく”不治の病”で若くして、男性も女性も死んでいった。

 

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「尋常小学校ものがたり」  竹内途夫 福武書店 1991年発行


「ハイビョウ」を恐れる子供たち

都会に出ていった少年少女たちは、中途で胸を結核に冒さ れる者が多かった。
その頃の奉公人は、いったん発病したら最後、すぐ解雇されて親元に帰されるのがおちだった。
今のように、雇い主が役に立たなくなった病人を、長いこと面倒を見てくれる時代ではなかった。
いわゆる社会保障や福祉に類するものはいっさいなく、
クビになれば仕方なく、こっそりとふる里のうす暗い我が家に帰ってきた。
そして破れた障子が揺れる奥のひと間で、時たま訪れる村医者の形ばかりの診察を受けながら、春がいつくるかわからないままに、季節の移ろいに身を委ねた。

結核患者のいる家は、真冬の寒い日でも障子を開け放していて、夜もこうこうと電灯の光を放っているのが遠くからのぞめたから、「肺病やみ」がいる家だとすぐにわかった。
寒くても絶えず外の空気にさらして、菌が家の中にこもるのを 防いだのであろう。
これは同居の家族への伝染をおそれてのことで、患者自身、構ってくれない家族への不満は、もうあきらめの中に消えていたし、
その家族の方も、何の役にも立たない者を、いつまでも構うだけの余裕はなかった。
肺病はうつる病気なのに、どうして遊病院に入れないのだろう。
田圃の中にいくから見える幾棟もの避病院は、白いペンキ塗り、四面がガラス窓のモダンな建物で、生い茂る草の緑に映えて美しかった。
空気はいいし、日光がふんだんに差し込む温室のような病室に入れたら、肺病など直ぐ治ってしまうのにといつも思ったが、この建物に人が居るのを見かけたことはついぞなかった。
倹約、倹約とうるさく言う大人たちは、なぜこういう無駄なことをするのだろうと、先生に聞いたら、
「肺病は伝染病とはいうても、赤痢やコレラなどとは違って簡単にうつるもんじゃないから、わざわざ避病院に入れる必要はないと法律で決まっとるんじゃ。
だいいち、肺病やみをいちいち入院さしようたら、避病院がなんぼあっても足りや せんのじゃ」

尋常科の子供には、発病する者はあまりいなかったが、高等科に進むと肋膜炎ということで、長期欠席をする児童がいた。
もともと家族の患者から感染する例が多いことは、親子や兄弟姉妹で発病する家が多いことでわかった。
これは患者と生活を共にすることにより、感染の機会が多く、
それに当時の食生活の貧しさからくる栄養不足が、病気に対する抵抗力を弱め、発病に拍車をかける結果となっていたのである。
結核に関する医学の進歩発達は戦後特に著しく、優秀な医薬品の開発による化学療法によって、結核で貴い命をおとす者はいないといわれるまでになったが、戦争前は実に多くの人々が結核で死んでいったのである。


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「梶原山のくらし」  梶原山(福山市引野町)のくらしを記録する会  2012年発行

福山回生病院会長 村上貞夫さん(大正10年生まれ)

結核

病院勤めをしていても、内科の患者で主に手のいるのはほとんど結核なんよ。
戦争中、国民はほとんど栄養失調になってしまっていた。
結核が感染していても無理をするもんじゃけえ、こじらせて本当の肺結核に移行してしまった。
そんな人がいっぱいおった。
どこでも、ほとんどの家に一人や二人はいた。
結核にかかると、皆死んでいった。

内科医として仕事をするには、
結核をなんとか処理しなければどうにもならん、と思うた。

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「新修倉敷市史第六巻」 倉敷市 平成16年発行


疾病と医療施設

結核は、結核菌の感染による慢性伝染病で、肺結核・腎結核・腸結核などを総称した名称であるが、特にことわらない限り肺結核をさす。
第二次大戦後の結核医学の著しい発展をみるまで決定的な治療法のない病気であった。 
病気そのものは古くからあるが、イギリスの産業革命期に多くみられて注目された。
わが国でも産業革命の進展に伴い、都市化・集団化した生活の中で流行しており、農村にまで及んだ。
『女工哀史』は劣悪な労働条件で結核に冒され解雇されて帰宅させられていく女工の姿を描 いている。
決定的な治療法のない結核への対応は、予防と伝染防止に主眼が置かれた。

患者発生の場合、学校・病院・製造所・船舶発着待合所・劇場・寄席・旅店などが地方長官の指示に従うことが規定された。
これをうけて倉敷警察署では関係の業者を同署に召集して注意を喚起した動きが見られる(「新報」明治34.9)。

大正2年(1913) 北里柴三郎が首唱して日本結核予防協会が設立された。
さらに旧「結核予防法」(大正8)が制定された。
これは患者発見の場合の医師による届出、消毒などによる取り締まり的役割を重視したものであった。 
このような施策の動向の中で県下では赤十字社にかかわる肺病患者療養所設置問題、笠岡町の古城山の地が浮上し、翌年1月から着手することになった。


結核患者には繊維産業における女子従業者の罹患率が高かった。
児島・都窪地域には他の地方から働きにやってきた人も多く、結核罹患が判明すると解雇のうえ郷里に帰された。
そのため帰郷した罹患者が農村部で結核の温床となった。
また農村は多くの兵士を供給しており、労働力と兵力確保の障害となることから結核は「亡国病」と呼ばれその対策が急がれた。
浅口郡都窪郡でも結核予防検診を地区別に行っており、官民あげて撲滅の宣伝に取り組んだ。
大正12年4月17日より結核予防デー(週間)としてポスター・宣伝ビラを接客場・工場に配布して注意を喚起した。
昭和3年の春にも結核予防週間が行われており、倉敷警察署では学校へ啓蒙取り組みを依頼して
児童作文募集、予防宣伝ビラの配布を企画している。
この企画はのちまで行われ、岡山では芸者・活動写真常設館(映画館)の音楽隊も街頭に出て協力した。
県下の患者は農村に多く、約2万人で男性が女性より多く、年齢別では20歳~30歳。

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