中等学校の大半が「高等学校」に転換(昇格?)した。
(県立学校)
男子校だった中学校・商業学校・工業学校・農学校は”男女共学”になった。
女子校だった高等女学校も”男女共学”となった。
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「笠商70年史」 笠岡商業高校 昭和46年発行
新制高等学校への歩み
吉岡「私は笠商女子第一期生です。昭和25年の入学で総合制高等学校時代でした。吸江・千鳥校舎をもつ大規模な学校でした。」
森山「今まで男子ばかりの学校に女性がはじめてはいったわけですから男子生徒が喜んだ。」
吉岡「それはもう物珍しい存在でした。
あの桜並木のなだらかな坂道を登りながら、校門にはいるまで恥しい思いで顔があげられなかったのを壊しく思い出します。
共学になったと言っても女子は少数で50名くらいでしたから先生や上級生にずいぶんたいせつにされたり、モテたりしたものでした。
戦後の苦しい時代でしたが学校での思い出は楽しいことばかりで自由な学園であったと思います。」
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70周年に寄せて
元校長
私が御校に赴任したのは昭和24年8月31日付でした。
この年アメリカ進駐軍の本部から全国各地の高校は地区ごとに数校の高校を合併して一校となし一人の新しい校長で経営するようにと強い勧告があり、
笠岡では商工業と普通家庭課四コース二校を統合県立笠岡高等学校とし、
吸江校舎に千鳥校舎の二校舎とし、
校長、 補佐役として部長を一人づつおくということになりました。
私は母校の矢掛第一高校からこちらの初代校長として就任を命ぜられました。
これを高校統合再編成と申していたと思います。
職員もその直後全県的の大異動がありました。
たしか両校舎で生徒数は付属定時制を合わせて2.000名位、職員数も100名に達していたかと存じます。
職員異動・就退任式は大変でした。
一度に20人位の新任者の生徒への紹介、顔と名前が覚えられず予め番号札を渡して抑えてもらい私はメモを便りに一人一人の先生を紹介したのも思い出の一つです。
当時一校四コースと定時制、生徒2.000人というのは県下随一でした。
両校舎連絡のため畑の中に連絡道路を作り、その道が掘れる位私や職員生徒が往復して一つの壮観でした。
ほんとに席の暖まる暇がなかった訳でした。
私は開校の式辞に、本校は県下随一の大校である。
昔話にあるバベルの塔の大混乱に陥らぬよう諸君と力を合わせて大校の成果を上げるよう努力したいと申しました。
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ニュー東映 「故郷は緑なりき」佐久間良子と水木襄
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「創立100周年記念誌・萩の道」 井原高校 2004年発行
男女共学に再編成
昭和24年8月31日、岡山県立高等学校設置条例に基づき、
男女共学の岡山県立井原高等学校として再編成され、再発足することとなった。
さらに、同年11月22日、岡山県立高等学校通学区に関する規則により、井原学区が制定されたのを受けて生徒募集を行い、翌25年3月22日、 女子学生179名とあわせて、初めて男子学生121名に対して入学が許可された。
ここに、明治・大正・昭和前期まで女子教育の場として続いた井原高等女学校時代が終わりを告げ、
昭和25年度からは男女共学の高等学校として、地域の期待をにないながら新たな第一歩を踏み出すこととなったのである。
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「創立100周年記念誌・萩の道」 井原高校 2004年発行
井高新聞第1号発刊
女学生として入学した私達はいつの間にか岡山県立井原高等学校併設中学校の中学生になっていた。
そして高校1年。
教科書らしき本も手にし、クラブ活動、グループ活動、選択教科など、新しい教科内容も組まれ、貧しいながらも楽しい学園生活を過ごす日がやってきた。
高校2年の時、井高新聞も私達の手で編集委員を組織し、初めて第1号を発行した。
市民病院の西側の運動場もこの頃拡張された。
毎日モッコをかつぎ土をおこし石を運んだ。
もちろん鍬などの道具は各自持参、
高3のとき 現在の井高の制服・校章・校歌が生徒に問われた。
校章は決まったが、制服・校歌はどうであっただろうか。
この年男子学生が入学。
女学校の生徒として入学した私達に男子学生は下級生ながらめずらしく、毎日が生き生きとして楽しい日々であった。
(昭和26年卒)
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私達は井原高等女学校に入学した後の学年で、
終戦後の教育改革により併設中学と名を改め、
その後高校へと進み、6年間在学しました。
入学して一番驚いた事は農業の授業があった事です。
食糧難の時代でしたから仕方がなかったのでしょう、山の上へ鍬を担いで芋を植えたり、
収穫期の芋掘り等、いくら若くても重労働のように思えました。
(昭和27年卒)
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(笠岡高校・昭和27年卒業アルバム)
女生徒に制服はなし、男子生徒の頭が長髪だ。
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「岡山県教育史・続編」 岡山県教育委員会 昭和49年発行
高校への移行
岡山県は、戦前から中等学校の普及度が高く、終戦直後の県立学校は
中学校11、
高等女学校23、
農業学校5、
工業学校4、
商業学校6の計49校があり、
中学校と高等女学校が65%を占めていた。
しかし、国民学校からの進学率は20~30%程度であったといわれ、
中等学校において必ずしも教育の機会均等を実現してはいなかった。
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「学校の歴史 第3巻 中学校・高等学校の歴史」 仲新 第一法規出版 昭和54年発行
高等学校への進学率等
中学校から高等学校への進学率は昭和二十年代の後半から急激に上昇した。
昭和25年の進学率は42.5%であったが、
昭和29年には50.9%と高校進学者は過半数に達し、
昭和36年62.3%、
昭和47年70.7%、
昭和45年82.1%、
昭和49年90.8%と、ついに九割台に及んだ
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