しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

学徒動員(中学校)

2024年01月17日 | 学制150年

勇しくなければ日本人でなかった、その時代の旧制中学の話。

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「金光学園百年のあゆみ」 金光学園 平成6年発行

軍事教練の想い出

当時中学生の服装は、カーキ色の学生服で、登下校時と教練の時はゲートル(巻脚絆)の着用だった。
帽子は今と同じ黒に白線二本、
昭和15年入学生は、カーキ色に白線二本のもの
昭和16年以降の入学生は国防色のいわゆる戦闘帽を被るようになった。

教練の授業は二時間続きで週三回、合計六時間。
教練に係る教官の職員室は、運動場に最も近い位置にあって、体育の先生と同室で、「生徒監(せいとかん)」と言い、
入室時には「〇年〇組〇〇〇〇、入ってよろしいでありますか?」と蛮声を張りあげ、中から「入ってヨーシー」と教官の許可がなければ入室できなかった。
教練の時、一・二先生はも木銃を、三年生は二二式銃を、四五年生が三八銃・騎兵銃を使用していた。
実弾射撃も時にあり、運動場の南端、遥照山麓で実施していた。

教練そのものも厳しかったが、服装・銃の管理・規律も大変だった。
また軍人勅語の暗記も絶対的なものだった。

訓練内容は、集合、歩行、匍匐前進、塹壕突破、手榴弾投擲、突撃等で、
サーベルで突かれ、長靴で蹴られながらの真剣勝負であった。




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「学徒動員壮行式答辞」

愈々学徒動員が下り、我等五年生は戦力増強生産の任務を以て出発致すこととなりました。
本日茲に我等のために壮行式を挙行致され、校長先生より御懇篤なる御訓示を賜り、
在校生総代より親切なる激励の辞を寄せられ感謝感激の至りであります。
日々夜々前線に繰り返されて激烈極まる戦闘の状況を聞くたびに我等の血潮は高鳴ります。
敵米英がこしゃくにも物量をたのんで我皇軍を圧倒せんとし、無数の爆弾無数の弾丸を以って我将兵を悩ましてゐるのであります。
今や一機でも多くの飛行機を、一発でも多くの弾丸を、一日でも早く前線へ送らねばなりません。
我等学徒が工場へ入り、軍需の生産に従事することは実に重大なる任務であります。
我等は今や直接国家のために役立つ日を迎えました。
我等が一本の鋲釘を打つその動作も、そのまま前線へひびくのであります。
このことを思ふ時、どうして自重せずにおられませうか。
祈りをこめ、誠心をこめて働かずにおられませうか。
力の限り御奉公を致します。
諸君もしっかり勉強してください。

昭和19年6月11日
第五学年生総代



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「岡山県教育史」 岡山県教育委員会  昭和49年発行


日常の生活訓練

昭和16年12月8日、ついに太平洋戦争に突入した。
体練科が重視され、時間数も倍増し、その傾向はいっそう強化された。
毎日の通学も「通学新体制」の名の下に、きびしい指導が行われた。
一定時刻に集合、二列で登校、校門を入る時は歩調をとって歩いた。
奉安殿に対する感謝のことばと誓いのことばを述べ、最敬礼をして教室に入るという状況であった。
高等科を設置している学校では、校門を軍隊の営門に模して衛兵所を設け、
衛兵と同じような勤務をさせていた学校もかなりあった。

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中学生の志願兵。まだ15才。

おじ(母の弟)は予科練に合格した。

昭和19年、興譲館中学3年修了時入隊。

この写真に、父と母と姉がいる。

おじはこの記念写真のあと、日芳橋の上に立ち

全西江原町民による”歓呼の声に送られて”入隊した。父もまた、まもなくして三度目の入営をした。

 

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「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行

陸海軍関係進学者・入隊者の増加

太平洋戦争開戦とともに中学生の応募急上昇していった。
官費で陸海軍将校になれる学校は、
学資にめぐまれない優秀な中学生には大きな魅力で12年9月から海軍甲種飛行予科練習生制度が設けられ、
中等学校四年修了者を入隊させ、多数の中堅幹部を養成することとなった。
太平洋戦争の拡大により、ますます航空戦力が必要となり、海軍の勧誘もいよいよ急となり、
学校にその出願者の割当てまでする状況となった。
海軍に対抗して、陸軍も18年から特別幹部候補生制度を設け、幹部を養成した。
国民学校高等科修了生には、幼年学校のほかに陸軍少年兵制度が設けられ、下級幹部となった。

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