しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和の尋常小学校・その2

2024年01月14日 | 学制150年

「尋常小学校ものがたり」  竹内途夫 福武書店 1991年発行


大きくなったら軍人になろう。

そしてせめて金筋一本の下士官になって、恩給がつくまで死に物狂いでがんばろうと心ひそかに思ったものである。 
軍隊には夢があった。食うこと、着ること、住むことの心配がないだけでなく、金持ちも貧乏人もなかったし、大学出も尋常出も一緒だった。
初めは二等兵でも、一年たてば一等兵になれたし、成績次第では上等兵だって夢ではなかった。 
再役を志願して下士官にでもなれば、もうしめたもので、苦しても百姓の辛さに比べたら、どんなことでも辛抱できると思った。
伍長、軍曹と進んで、曹長になればどえらい出世だ。



師範学校


師範学校で教育を受ける生徒には、不況の当時にあってはどれをとっても垂涎の的ともいえる、いくつかの特典があった。
それは学資の支給、教員免許状の附与、就職の保障、兵役の猶予ないし軽減などで、これには特に農村の優秀な人材が集中した。
師範の卒業生で身体が軍役に耐えれば、短期現役兵として徴集され、わずか五ヵ月の訓練を経て陸軍では伍長、海軍では三等兵曹に任官し得て除隊し、
しかも一般なら除隊しても予備役、後備役として長い年月を拘束されるのに、一足とび国民兵役となり、
事実上、永久に銃をとることはないと保証された。

 

代用教員

昔の高等小学辛だけの学歴の教師もいた。
しかし、いちばん多いのは中等学校卒業者であった。
これらの人で検定に合格して、一定の資格をしてから就任する場合は別だが、無資格のままで教職につく場合は代用教員といわれた。
小学校教員では、免許状を有する者を任命することが原則だったが、特別の事情がある時、小学校準教員に代用することができると、当時の制度にあったそうである。

これより少し後のことになるが、昭和14年(1939) 師範出の短期現役制が廃止され、日中戦争に続いて昭和16年に太平洋戦争が始まると、若い教師も一般の若者と同じ ように銃をとって戦場に出るようになった。
そのために教師の不足が生じ、大量の代用教員の登場となった。
各小学校でその中等学校卒業生が代用教員として活躍していた。

終戦前後の教員不足の頃は、履歴書一本、校長の一存、
「明日から来てくれんさい」のひとことで翌日から出勤、正式手続きはあとからでよかった。
だが、いったん採用された代用教員は、優秀な人材が多かった。
それだけに年数を重ねても、はるか年下の師範出の若い教師が、いつでもどこでも上位を占めていくのは口惜しかったことであろう。

 

「愛国第〇号」機

五銭や十銭の貯金が国防献金に変わり、飛行機が次々と軍に献納され、「愛國第何號」とそのつど命名された。
非常時、非常時、前代未聞の非常時来ると叫ばれ、教材として鎌倉時代の元寇の史実がよく取り上げられた。
あの時の国難も、満州における日本の生命線を侵すこんどの事変もまったく同じだから、
全国民が一丸となって、元寇の時のように、国難排除に当たらなくてはならないと教えられた。
元寇は元軍が来襲し、こんどの事変は日本軍が支那の国土を侵して戦っているのに、誰もこれを咎めなかった。
それを口にできる世の中ではなかった。
三年生以上のどの教室にも、満州国の大きな地図が貼られ、教師の口からやたらと満州の話を聞かされたが、
つまるところは、この地で戦う皇軍将兵の労苦に感謝し、これに報いるにはどうすべきかに落ちついた。


一礼

きちんと挨拶することを怠らなかった。
学校に着くと校門で 一礼、
顕彰した校長頌徳碑に一礼、
さらに五、 六歩進んで二宮尊徳少年像に一礼、
また三十歩ほど進んで郷土の戦没軍人の武功を称えた忠魂碑に敬礼、
そして運動場の中央では奉安殿に向かって最敬礼して、ようやく教室に入れた。

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「笠岡小学校百年史」

男子校時代の思い出

どんな教育を受けたか

スパルタ教育の一話につきる。
半ズボンで校内はすべて裸足で走り回ったものだ。
当時、先生はみんなネンプチ (竹の根)を持っていて、悪いことをするとこれでこつんとたたいた。
すると、こぶが3つぐらい一度にできた。
入学式のとき、笠神社へお参りして修身の教科書をもらった記憶があるんだ勧学祭といって、昭和初年頃からはじまった。
昭和4年ごろからかな、毎月はじめに笠神社へそろって参拝しはじめたのは。
太平洋戦争にはいってからは毎月8日に変わったと思う。(興亜奉公日→大語奉日)。
学校神社ができたのは昭和5年だった。
遠足はあったよ。 高島へ行ったことがある。 (高島宮建跡へおきよ丸で行った。)
海洋少年団ができたのは昭和8年ごろだった。
40名ばかりの団員がカッターをこいだ。
泳げない者は、先生が海へ投げこんだりした。その後、航空少年団ができた。
運動会は女子校の運動場を借りて合同でやっていた。1分もくるわずに演技をした。
学級編成は、忠・孝・敵の3組だった。

(笠岡町立男子尋常高等小学校校門・昭和2年)

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