「一高→東大」というのが長く日本の超エリート指導者層だったが、
年月を経て「いっこうとうだい」という言葉も、最近は聞かなくなった。
旧制第六高等学校が、1900年(明治33年)3月に岡山県岡山市に設立された。略称は「六高」(ろっこう)。
戦前の岡山県民の誇りの学校が「六高」と「岡山医大」。
(撮影日・2013年10月14日岡山駅前)
六高生は大変なエリートで、肩で風を切るのは当たり前。
富士製鉄の社長だった永野重雄さんは、柔道部員で警官を旭川に投げ込んだことを自慢していた。
それは六高生にとっては岡山市では、大目に見てもらえる範囲の行動だった。
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第六高等学校の設置
明治31年12月第十三回帝国議会で高等学校増設の声がおこった。
当時高等学校は、第一高等学校(東京) 二高(仙台)三高(京都) 四高(金沢)五高(熊本)のほかに山口(後高等商業に改組)の六校があったのみである。
政府も高校増設の議を決したため、岡山、広島、香川、愛知の四県は高校誘置の運動を展開した。
なかでも、岡山県と広島県の争奪戦はすさまじかった。
岡山市議会議員中から七名を選んで、六高創立委員会を組織し、時の岡山県知事高崎親章は岡山市長小田安正等と共に、岡山県に関係の深い小松原英太郎(当時司法次官)坂谷芳郎(当時会計局長)馬越恭平等を介して六高誘置のためのはたらきかけを熱心におこなった。
委員会は、県、商工会議所とも一丸となって運動し、市の世論も大いに高まっていった。
広島県側の運動の様子を「六稜寮史」は次のように伝えている。
「当時岡山県に対抗して最も劇烈な運動をしたのは広島県であった。
岡山県に劣らず県当局も議員も熱心にその運動に努めた。
両県の新聞も互いに負けず劣らず高等学校設置問題について劇烈な論争をつづけ、両県の代議士間の感情も可なり険悪であった。
同じ政友会に属して居た岡山県選出の代議士石黒涵一郎氏と広島県選出の代議士井上角五郎氏が衆議院の廊下に於て格闘したのもこの議会中の出来事であった。
以て当時両県の高等学校設置問題に対する白熱化を窺ふ事が出来やう」
かくして32年2月遂に六高の岡山設置が決定した。
「岡山の教育」 秋山和夫 岡山文庫 昭和47年発行
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六高の生徒気質
六高の第一回卒業式は明治36年7月3日同校講堂で挙行された。
卒業生合計60名、内訳は法科生9名、文科7名、工科16名、医科28名。
出身地は岡山県10名、大阪府9名、兵庫・岐阜各5名、愛知・和歌山4名、広島3名、京都・福岡・愛媛・奈良・三重・静岡・ 東京・滋賀・鳥取・高知・富山・島根・茨城・ 山梨・香川各1名であった。
明治30年代は日本資本主義の急速な発展期にあたり、古いものの衰退しつつあった時代でもあり、生徒はこれにとってかわる新しい思想や、モラルなり精神の根底となるべきものを求めてやまなかった。
「岡山の教育」 秋山和夫 岡山文庫 昭和47年発行
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大正7年12月「高等学校令」が制定公布された。
それにともなって、高等学校高等科への入学資格は中学校第四学年修了程度に改められた。
「学校の歴史第3巻中学校・高等学校の歴史」 仲新 第一法規出版 昭和54年発行
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(旧制第六高等学校は昭和20年6月の空襲で焼け落ち、戦後の学制改革で消滅した。昭和23年から岡山朝日高校が跡地を使用している。
撮影・2022.12.20)
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(Wikipedia)
1918年(大正7年)12月に公布された2つの「学校令」
一つは高等学校令の全部改正(第二次高等学校令)であり、
大学進学課程(高等科)としての高等学校の性格が明確化された。
もう一つの大学令では、
帝国大学以外の大学、すなわち官立(単科)大学・公立大学・私立大学の設立が容認された。
以降、数多くの官・公・私立専門学校が大学昇格運動を展開し、大学令準拠の(旧制)大学への改編を達成した。
これらの結果、それまで言論界・教育界を騒がせてきた「学制改革」論議には一定の決着が与えられ、戦前期日本における高等教育制度の確立を見るに至った。
当該期にはまた、それまで公教育体系の外部に位置づけられていた就学前(幼児)教育と障害者教育が初めて制度化されるに至った。
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