しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

父の学歴

2024年01月04日 | 学制150年

学校には藁草履に皮を張っていた。
草履は自家製、皮を張るのも自家製。
皮は竹の皮で、
ゴム草履などは想像もできない。
家では藁ぞうりをはいとった。

着物は文字どうり着物。洋服ではない。
男は帽子をかぶり、女はない。

一年時は着物で二年から洋服を着ていった。
三年になってもきてくるのはおったが。

女は着物のままが多い。


遠足
遠足はバス・汽車というのはなかった。すべてあるいていって、歩いて帰ってくる。
修学旅行 ? そんなもんはない。
行き先は茂平のさらやま、吉浜の天神さん、笠岡の城山など。

(父の話)
2000年06月14日

 

(大正12年頃の父)

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大正13年 城見尋常高等小学校1年
大正14年 城見尋常高等小学校2年
大正15年 城見尋常高等小学校3年
昭和2年 城見尋常高等小学校4年
昭和3年 城見尋常高等小学校5年
昭和4年 城見尋常高等小学校6年
昭和5年 深安実業学校1年
昭和6年 深安実業学校2年
昭和7年 深安実業学校3年
昭和8年 深安実業学校4年

 

(父の卒業写真・城見小)男子は全員学生服・学帽、女子は洋服が1名いる)

・・・


「目でみる岡山の昭和」 蓬郷巌 日本文教出版 昭和62年発行

学童服が普及

大正末期から児島で始まった学生服の大量生産で、
学童たちの服装が、和服から学生服へと急速に変わっていった。
昭和3.4年後頃の児島の学生服生産量は百万着を越え、昭和13年頃には一千万着と、
全国の90%のシェアを誇り「学生服王国」となった。
なお女子学童の和服姿も、少し遅れて洋服への転換が進み、
昭和4年頃にはほとんどが洋服になった。 (昭和4年、城見小は1名のみ)

 

・・・

※父は自分が行った学校のことを”深安実業”と呼んだことがない。
「かんなべ」「神辺の農学校」「神辺実業」、終生このどれかで呼んだ。

・・・

みんな神辺実業へ


とにかく皆、神辺へであった。気の利いたのは高松に行っていた。

自転車で行きょうた。
道は茂平を出て大門を通って、引野へ回って。
(大門)駅前を通って山を通る、下へ降りて。
「こうざき」ゆうとこから、こんどは春日へ行きょうた。
神辺まで行くのに約1時間かかりょうた。


女(おなご)は女子部で校舎が違うとった。
家庭科じゃ。男は農業科じゃ。
男の校舎は北側、女の校舎は南側。
女がエエ南側じゃった。


寄宿舎
遠いのは神石から来とるのもいた。そのため、学校の中にちいさな寄宿舎みたになのがあった。

農業
実習場をもとった。
授業・行事は
授業内容はいまとほとんどからわん。運動会もあった。

生徒の出身
こっち(岡山県側では)の方面では、井原・大江・岩倉・陶山・城見。
笠岡でももう東のほうからは来るのはおらなんだ。

卒業後の父

昭和9年3月に神辺実業を卒業
最初役場に行ったが、
県技師の試験をうけてとうった。ちょっとお金が余分にもらえたんだ。
岡山で言えば「高松農」広島で言えば「西条農」が双璧で農業関係は牛耳っていた。
戦争に向かう時代じゃけぃ、軍事訓練や、男にゃ戦争に関することばぁ、はやりょうた。

2000・5・6

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父は保育園・幼稚園には行ってない。城見村になかった。

父の城見小学校の同級生で卒業後の進路は
男子は

①中学・福山中学校、金光中学校。
②実業・笠岡商業・福山工業・盈進商業・神辺実業
③城見尋常高等小学校の高等科
④進学せず。

女子は
笠岡高等女学校
②城見尋常高等小学校の高等科
③進学せず

等であったと思える。
太字は特に多い人。

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父は農家の跡取で、当然のように神辺実業に進学した。

 

コメント
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