学校には藁草履に皮を張っていた。
草履は自家製、皮を張るのも自家製。
皮は竹の皮で、
ゴム草履などは想像もできない。
家では藁ぞうりをはいとった。
着物は文字どうり着物。洋服ではない。
男は帽子をかぶり、女はない。
一年時は着物で二年から洋服を着ていった。
三年になってもきてくるのはおったが。
女は着物のままが多い。
遠足
遠足はバス・汽車というのはなかった。すべてあるいていって、歩いて帰ってくる。
修学旅行 ? そんなもんはない。
行き先は茂平のさらやま、吉浜の天神さん、笠岡の城山など。
(父の話)
2000年06月14日
(大正12年頃の父)
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大正13年 城見尋常高等小学校1年
大正14年 城見尋常高等小学校2年
大正15年 城見尋常高等小学校3年
昭和2年 城見尋常高等小学校4年
昭和3年 城見尋常高等小学校5年
昭和4年 城見尋常高等小学校6年
昭和5年 深安実業学校1年
昭和6年 深安実業学校2年
昭和7年 深安実業学校3年
昭和8年 深安実業学校4年
(父の卒業写真・城見小)男子は全員学生服・学帽、女子は洋服が1名いる)
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「目でみる岡山の昭和」 蓬郷巌 日本文教出版 昭和62年発行
学童服が普及
大正末期から児島で始まった学生服の大量生産で、
学童たちの服装が、和服から学生服へと急速に変わっていった。
昭和3.4年後頃の児島の学生服生産量は百万着を越え、昭和13年頃には一千万着と、
全国の90%のシェアを誇り「学生服王国」となった。
なお女子学童の和服姿も、少し遅れて洋服への転換が進み、
昭和4年頃にはほとんどが洋服になった。 (昭和4年、城見小は1名のみ)
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※父は自分が行った学校のことを”深安実業”と呼んだことがない。
「かんなべ」「神辺の農学校」「神辺実業」、終生このどれかで呼んだ。
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みんな神辺実業へ
とにかく皆、神辺へであった。気の利いたのは高松に行っていた。
自転車で行きょうた。
道は茂平を出て大門を通って、引野へ回って。
(大門)駅前を通って山を通る、下へ降りて。
「こうざき」ゆうとこから、こんどは春日へ行きょうた。
神辺まで行くのに約1時間かかりょうた。
女(おなご)は女子部で校舎が違うとった。
家庭科じゃ。男は農業科じゃ。
男の校舎は北側、女の校舎は南側。
女がエエ南側じゃった。
寄宿舎
遠いのは神石から来とるのもいた。そのため、学校の中にちいさな寄宿舎みたになのがあった。
農業
実習場をもとった。
授業・行事は
授業内容はいまとほとんどからわん。運動会もあった。
生徒の出身
こっち(岡山県側では)の方面では、井原・大江・岩倉・陶山・城見。
笠岡でももう東のほうからは来るのはおらなんだ。
卒業後の父
昭和9年3月に神辺実業を卒業
最初役場に行ったが、
県技師の試験をうけてとうった。ちょっとお金が余分にもらえたんだ。
岡山で言えば「高松農」広島で言えば「西条農」が双璧で農業関係は牛耳っていた。
戦争に向かう時代じゃけぃ、軍事訓練や、男にゃ戦争に関することばぁ、はやりょうた。
2000・5・6
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父は保育園・幼稚園には行ってない。城見村になかった。
父の城見小学校の同級生で卒業後の進路は
男子は
①中学・福山中学校、金光中学校。
②実業・笠岡商業・福山工業・盈進商業・神辺実業。
③城見尋常高等小学校の高等科。
④進学せず。
女子は
①笠岡高等女学校
②城見尋常高等小学校の高等科
③進学せず
等であったと思える。
太字は特に多い人。
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父は農家の跡取で、当然のように神辺実業に進学した。