しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

中学校への進学者

2024年01月03日 | 学制150年

戦前は東京や大阪を除いて、ほとんどが農山漁村で
しかも、その長男となれば親の職を継ぐのが生まれた時からほぼ決まっていた。
中学校へは立志者や金持ちに限られ、しかも男性限定。


城見村では、城見小学校から毎年2~3人の中学進学者がいたようだ。
その進学先は福山中(ふくちゅう・誠之館)または金光中学(こんちゅう)。
地域の県立中学校だった矢掛中学や、距離的に近い興譲館には進学してない。
これは大門駅から通えるのは福山中と金光中しかなかったからだろう。


城見小学校から中学校へ進学した人は、その多くの人が目指すのは
海兵・陸士、師範学校。
高等学校は次に大学という前提なので、貧しい城見村の親ではいかすことができなかった。

 

・・・


元・福山中学「広島県福山誠之館高等学校 第八回卒業記念 昭和三十一年三月」

 

・・・


岡山中学

難関を突破して入学した生徒達は「中学校を卒業したからとて、別に之といふ資格があるでなし、上級学校に入るには必ず全科の試験を受けるのでしたから、別に卒業する必要もなく、実力さへつけばよいのと、一年でも早く上級学校に入学せんとの考えから、自ら進んで、自発的に勉強して実力の増進に努めた。
そこで、卒業を待たずに上級学校に入学する者も多かったので、 明治十二年に第一回の卒業生を出してから、四回も卒業生の出ない年があった」のである。

「岡山の教育」  秋山和夫 岡山文庫  昭和47年発行

・・・

 

「学校の歴史第3巻中学校・高等学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行


中学校の歴史  明治から大正

明治11年~明治40年の教育


明治20年代後半から、30年代にかけ中学校も次第にその増設の速度を早めた。
主として府県立中学校の増加であった。
なぜこのように府県立中学校が増加したのか。
その理由の第一は小学校教育の普及・発達であろう。明治35年には90%を超えた。

ところで、こうした中学校の急増は、当然その卒業生の急増をともなっている。
中流社会の構成員としての一般的教養を身につけただけで、何の職業的訓練もなく、ただ気位のみはかなり高い中学校卒業生は、社会へ出てもただちに就きうる適当な職業が容易には見つからなかった。
せいぜい郡役所や村役場の書記とか、小学校の代用教員ぐらいのものであったが、これらの職場もきわめて限られたもので、中学校卒業生の就職口としては焼け石に水であった。
いきおい多くの卒業生が上級学校進学をめざして、その狭き門に殺到し、しのぎをけずる結果となった。

 

・・


中学校の制度的変遷をあとづけてみよう。 大正7年12月「高等学校令」が制定公布された。
高等学校は大学予科であることをやめ、男子の高等普通教育を完成するところとされ、七年制高等学校を本体とするものとなった。
それにともなって、入学資格は中学校第四学年修了程度に改められた。

・・

中学校入学難
入学者の「入学前学歴」をみてみると大正前期にはむしろ尋常小学校の過年度卒業者が高い比率を占めており、
大正後期の中学校増設等によってようやぅ尋常小学校卒業者の比率が前者を上まわるに至り、昭和期にかなりの程度事態の改善をみる。

つぎに入学者の社会的背景の変化を知るために、家庭の職業とその構成比の変化をみておきたい。
社会構造の変化を反映し各職業分野の構成比が総体的には向上し、家庭の職業構成が多様化していることがわかる。 
入学者の家庭の職業構成は、まず「農業」が30%台から10%台に急落しているのに注目せざるをえない。

 

・・・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする