しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

新制中学校発足

2024年01月27日 | 学制150年

明治26年生まれの祖父は、平成4年に98才で亡くなったが、中学校のことを
死ぬまで「中学」とは言わなかった。
死ぬまで「新中」(しんちゅう)と呼んでいた。
祖父にとって中学校とは、分限者とか支配層の子弟に限定された学校であったのだろう。


昭和22年に誕生した「新制中学校」は、
”初等学校”か”中等学校”かで議論があり
衣・食・住、そのすべてが不足した時代に設立された。

 

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新制中学校の発足とその悩み
中学校発足までの経過

昭和22年4月1日施行の学校教育法により、新制中学校が設置された。
文部省では、これに先立って同年2月、地方長官あてに「新制度実施準備の案内」を送り、
ただちに、新制中学校の設立 にとりかかるよう指示した。 
新制度を円滑に実施するため、市町村部および県単位に、民主的に選ばれた人々によって「新学制実施準 備協議会」を組織すること。
昭和22年度には、第1学年(第7学年) だけ実施
第2学年(第8学年)は23年度から、
第3学年(第9学年)は24年度からそれぞれ義務を実施する。

22年度の編成は、次のとおりとする。 
新制中学校第1学年(第7学年) は、現在の国民学校第6学年を修了する児童を収容する。
第2学年(第8学年) (非義務制)は、現在の国民学校高等科第1学年および青年学校普通科1年の希望者
第3学年(第9学年) (非義務制)は、現在の国民学校高等科第2学年、青年学校普通科2年および本科1年の希望者を収容する。

中学校、女学校、実業学校の第8学年、第9学年に相当する者は、併設中学校の相当学年に収容する。
男女共学を実施し、全日制のみとして、授業料無徴収であること。
新制中学校は、独立校舎をもち、専任の校長および教職員を任命すること。

これをうけて、岡山県では、次のような新制中学校設立の指導方針を定めた。
新制中学校設置の指導方針
学校の規模は、地域社会の実情に即して6学級以上20学級以下を標準とする。
通学距離は、片道6キロメートル程度をもって限度とする。
できるだけ組合立中学校を設置するよう指導する。 
校舎は、独立建築を原則とする。


中学校の設立
22年4月1日付で教員の任命があり、各校それぞれ開校に着手した。
何もない白紙の状態で、食糧事情もきわめて悪かった時点で、各市町村一斉のスタートという作業であるから、
筆舌に尽くしがたい苦心の中を、4月28日までには一応準備を完了して新しく開校のはこびとなった。
旧制中等学校の2,3年は併設中学校という名で存続した。
校舎は、さしあたって小学校の高等科の教室があき、それを新二、三年に充当した。
不足するので、青年学校、旧制中等学校、公会堂、工場、兵舎、寺院等利用できる施設をフルに使用し、
独立の校舎をもったものは極めて少なかった。

「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行

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(福山市東中・昭和28年3月卒業アルバム)

 

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「岡山県史第13巻現代Ⅰ」 岡山県 昭和59年発行

新制中学校の発足
新制中学 校の理念
1947年3月、
戦後の新しい学校教育の在り方を明示した学校教育法の制定によって、六・三・三四の単線型の学校制度が確立された。
新学制の第一の特色は、
初等教育としての小学校六ヵ年、
中等教育はこれを上下に分かって、中学校三カ年、高等学校三ヵ年、
その上に高等教育としての大学四ヵ年をもって、
学校の基本となる体系を決定した。 

これは、在来のように入学した学校によっては、より上級の学校へは進学できなくなるという、
いわゆる袋小路の多い複線型の学校体系から、誰でもその努力と能力に応じて大学まで進学することができるという、
民主的な単線型の学校制度である。


新制中学校は、戦後の財政難、生活難の中であるにもかかわらず、
アメリカ合衆国教育使節団の勧告により、
言わば強制的に合衆国から押し付けられた学校制度であったと言える。
そのため校長は、新制中学校をより良く運営し、それを充実して行くためには多くの苦労があった。

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「教育の歴史」 横須賀薫 河出書房新社 2008年発行


学制改革

昭和22年「教育基本法」「学校教育法」が制定された。 
学校の名称も国民学校初等科は小学校に改められ、高等科は廃止された。
さらに三年制の中学校が新しく設けられ、22年4月1日小・中学校9ヶ年を義務教育とする六三制が発足した。
このことにより、従来の国定教科書制度が廃止された。
小学校では教育改革の一環として教科書に多様性をもたせ、各学校のカリキュラム計画に適合したものを選び創意工夫し教育を行っていくことが目的だっ た。
原則として検定教科書か、または文部省著作の教科書を使用することになった。

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「学校の歴史第3巻中学校・高等学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

序章 後戦の教育改革と
「学校教育法」により、新制の中学校および高等学校が成立し、
旧制の諸学校を解体して中等教育段階は中学校・高等学校として再編された。
新学制は教育の機会均等の原則により、
学校体系の民主的単線化を行い、
また中学校の義務制を実施して、
前期中等教育を義務教育とした。
そして中学校は昭和22年度から、高等学校は昭和23年度から発足した。


占領政策と中等諸学校

青年学校は勤労青年のための定時制の学校であり、中等学校とはみなされていなかった。
しかし生徒の年齢は中等学校段階に相当しており、
新学制の成立に際して中学校および高等学校の生徒として受け入れられる措置がとられた。
また青年学校の教員の多くは新制中学校の教員となった。
これらの点から青年学校は新制中等学校の一つの母体とみることができる。
青年学校には普通科と本科をおき、普通科は国民学校初等科卒業者が入学し、修業年限は二年、
本科は普通科修了者または国民学校高等科卒業者が入学し、男子は五年、女子は三年であった。
昭和14年に男子の義務制が実施され、その後戦時体制の強化にともなって青年学校は軍事教育を主体とする

新制の中学校の主要な母体となったものは国民学校の高等国民学校高等科であった。
新制の中学校は生徒の面からみると、国民学校高等科・青年学校普通科・中等学校低学年等を統合して編成されたが、
中でも国民学校高等科は同年齢層の国民の最も多くの者を収容していた。
また 新制の中学校は国民学校と同様に市町村に設置義務が課せられていたので、 新制の中学校の多くは実質的に国民学校高等科を中心母体として設置された のである。
国民学校は初等科(六年)と高等科(二年)から編制され、国民学校高等科は初等科と違って全国民に共通な課程ではなく、中等学校に進学しない大衆の ための学校であった。
したがって新制の中学校とは本来異なる性格の学校であった。
そこで国民学校高等科を主要な母体として新制の中学校を設置するためには、学校の性格を大きく転換する必要があり、そこに多くの困難な問題が横たわっていたのである。

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「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行「岡山県教育史続編」 

中学校創設当時の苦心
(当時岡山一中校長)
中学校は当時の町村長にとっては米のキョウシツ・供出と中学校のキョウシツ (校舎建築)はまさに命取りといわれ、
このために自殺した村長があったほどです。
新制中学校は、これまでの国民学校高等科と青年学校を合わせて作ったものですから
校舎はなく、市町村の財源もきわめて少なく、机もなければ教科書もない。
校長としてもっとも苦しんだのは、
よい教員を集めることで、
小学校・青年学校・中等学校からゆずってもらった寄せ集めの陣容でずいぶん困ったが、
先生がたはよく努力してくれたと思います。

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毛利章一(当時金浦中学校長)
中学校長を命ぜられ、開校するまでの一か月、
半数以上そろっていない各教科の教員を集めること、
三か所の小学校と青年学夜に分散して学校を開設する計画であったのを二か所にまとめる交渉から仕事を始めた。
学校の位置指定は三か町村の意見が対立し地方事務所長や県会議長まで仲介にたたれたが、まとまらず分裂寸前まで追いこま れたこともあった。

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(新教育制度の)小学校発足

2024年01月27日 | 学制150年

「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

占領下の小学校
制度・設置・管理

小学校の制度
昭和22年3月、「学校教育法」が制定され、これに基づいて新学制が発足した。
新学制と小学校新学制は民主主義の理念に基づく教育の機会均等の実現を目指すものであり、
小学校は中学校とともに昭和22年4月から発足した。
その名称も「国民学校」から明治以来国民から親しまれて来た「小学校」に改称された。
小学校の修業年限については、学校教育法で、「小学校の修業年限は6年とする」と規定された。
民衆的性格をもって存在した国民学校高等科(二年)を初等教育から切り離して、中等教育段階に編成したことにより、
新制の小学校はすべての国民のための共通の基礎課程として性格づけられたのである。

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「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行


新しい小学校教育

小学校の発足
22年3月、「教育基本法」、「学校教育法」が制定、公布されて、教育の基本原理と学校体系が決定された。
22年4月、新学制発足に伴い、国民学校はふたたび小学校という名称にかえって、
六・三制の最初の六か年の課程をになう学校として構成され、
従来の高等科は廃止されて新しく三年の課程の新制中学校の制度が発足した。
九か年の義務教育制度が確立されたのである。
このため、国民学校高等科の在学生は中学2、3年へ移行した。
中等学校は1年生なしで、2,3三年生は在学している中等学校の併設中学校の生徒となった。


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小学校の教員
新制小学校の実施にあたって教員の質および量の確保は深刻な問題であった。
戦後教育における教育理念の転換、待遇の低さなどにより教職を去るものも多く、
また新制中学校が新しく設置されたため、
国民学校教員のなかから約9万人(中学校教員の50.9%)に及ぶ比較的優秀な教員が中学校へ異動した。
このように小学校発足当時は教員組織は弱体化し量的のみならず質的な低下をきたす状況にあった。

昭和25年度における小学校教員の学歴別構成を示すと
師範学校出身者が50%に満たない状況であり、
旧制中等学校及び新制高等学校の出身者が合わせて45.1%を占める状況であった。

「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行


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 「ビジュアル版 学校の歴史」  岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行

A. 脱脂粉乳とみそしる

敗戦後、占領軍の援助のもとで、 1946(昭和21)年12月から東京、神奈川、千葉の3都県の学校で試験給食が始まりました。 
1949(昭和24)年10月からはユニセフ (国際連合児童基金)から寄付を受けて、ユニセフ給食も開始されました。
初めはミルク (脱脂粉乳) とみそ汁などの副食だけでしたが、 
1950(昭和25) 年7月からガリオア (アメリカ政府が支出した占領地救済資金)によるアメリカ小麦粉で
8大都市 (6大都市に広島、福岡)の児童にパン、ミルク、 おかずの完全給食が行なわれ、
翌年2月からはこの完全給食が、全国の市制地にもひろげられました。

 

A.鉛筆の全盛期

1950年代から復活し、 全盛期を迎えます。 1本10円という時代が1950 (昭
和25)年から1969(昭和44)年までの19年間も続いたのは、それだけ消費する量が多かったことを示しています。
 しかし、長く続いた鉛筆時代も、1955(昭和30)年ころから急速に使われ始めたボールペンやシャープペン シルにとって代わられつつあります。 (岩本)

 

A. クレパスの誕生

クレヨンの材料は植物のロウ分ですから 温度が高いと溶けて手などが汚れたり、 画面の色が手についたりします。
こうした欠点を補うためパステルが作られました。
さらにクレヨンとパステルから日本製のクレパスが誕生しました。
 

 

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「百年誌」 笠岡小学校  昭和48年発行

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小学校再開

2024年01月27日 | 学制150年

「戦争の中の子どもたち」  福山市引野学区まちづくり推進委員会 2015年発行

 
小学校の授業は、戦争が終わると再開されることになった。
しかし、校舎も机も椅子も焼けてしまった。
そのため、学年ごとに分かれた分散授業が、各集落のクラブ (会館) や神社を利用して始められた。
教員室は学校に最も近かった不動里のクラブが当てられた。 
教員は毎朝ここに集まり、打ち合わせの後、各地区の教室に向かった。
授業後、再び不動里のクラブに帰り、反省会をやるという日課であった。
村にとっても当面する最も重要な課題は、小学校校舎の再建問題であった。 
村内の有志が農業会の二階に集まり、総会を開き、その課題を話し合った。
その結果、村民から起債を募り、それをもって再建しようという意見が大勢であった。 
たちまち三十万円の起債が集まった。 
(深安) 郡や県からの補助は 微々たるものであった。
航空機乗員養成所の廃止に伴い、その建物の廃材が利用できるこ とになった。 
残暑未だ厳しい九月初め村民あげて、建築資材の運搬にあたった。

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「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行

戦時体制の解除も急いで行わなければならなかった。 
8月16日学徒動員解除、
8月24日学校教練、学校防空関係等の訓令が廃止された。
8月25日、「対新時局緊急措置ニ関スル件」が、岡山県から通達されている。
     一御真影、詔書類奉安殿、奉安所=奉還スルコト
     二 興亜室ハ之ヲ撤去、他ノ有効ナル教育施設=転換スルコト
     三玄関・廊下・教室等校内一円ニ亘り、米・英・ソ・支ヲ敵視シ、一切ノ資料之ヲ撤去ス。

 

学校につぎつぎと来るものは、占領軍の指令と、物資不足を補うため学童の大量動員による未利用資源の採集の依頼、要望で、
これは戦争末期よりもさらにきびしかった。

県は経済部長、教育民生部長の連名で
県下各学校を集荷単位に生徒、学童による未利用資源90万メ (乾燥品)蒐集運動を展開し以って政府の政策に協力すると共に
勤労作業を通じて学童の勤労的団結精神の涵養、学童自らの手による学校給食の実現を期せんとす。 
実施方策
一・ 荷原料と品を概ね左の通りとす。
春季・ワラビ、ゼンマイ、フキ、コメ菜、クローバー等の野草、嫩葉、褐藻類、茶、マコモノ葉
夏季・南瓜種子、南瓜の褐藻類、茶殻、ヨメ菜、アカザ等の野草、里芋
秋季・ 団栗、蕨地下 果実皮、南瓜種子、南瓜葉、褐藻類、里芋茎、大根葉、桑残葉、茶殻
冬季・ 果実皮、葛根 茶穀、甘藷茎葉、大根葉、人参葉、 団栗
二・集荷機関 農業会

・・・

 

「百年誌」 笠岡小学校  昭和48年発行


昭和20年8月15日
正午、戦争終結に関する玉音放送を聞く

昭和20年8月16日
児童を臨時召集し、戦争終結についての校長訓話

昭和20年10月31日 
高等科2年、初等科4年参列 六甲国民学校の疎開児童の送別会を挙行男女両校

昭和21年1月4日 
連合軍司令部の指令により、次のことを禁止される
①学校(私立、神道学を除く)で神道の教義を弘布すること
②学校で神社参拝、神道に関する祭式儀式および慣例の挙行

昭和21年1月21日  
連合軍司令部の指令により「修身・歴史・地理教授に関する件」として修身・歴史・地理の3科目の現行教科書と教授が禁
止される

笠岡男子国民学校の玄関
戦後東中学校に移転。
老朽化のため取り壊されて現存しない。

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「岡山県史第13巻現代Ⅰ」 岡山県 昭和59年発行

戦後の学校は、軍国主義から民主主義へと180度の方向転換の努力を続けながら、教育を再開して行った。


昭和20年9月20日に文部省は、
国防軍備などを強調した教材、戦意高揚に関する教材などの全部、またはその一部を削除することの通牒を発した。
教室で使用中の教科書の該当部分に墨を塗って使ったのはこのときのことである。

連合軍最高司令官は、同年10月22日に「日本教育制度に対する管理政策」を覚書として日本政府に指令した。 
軍国主義を一掃すべきことが要望されたのである。
その中の一つとして、同年12月31日には「修身日本歴史および地理停止に関する件」の指令が出され、
これらの教科を学校で教えることが禁止された。 
修身・歴史・地理の教科書は焼き捨てられた。
軍国的な色彩を持つと思われる書物も、同時に焼却されたのである。
この辺の事情を当時の関係者は次のように回想している。
管理で思い出すのは、秦の始皇帝の故事をそのままに、いわゆる「焚書」ということを経験したのも、 
「朝令暮改」的な指示、指令に幾度か迷わされたのも、この頃のことである。
特に、児童にその持つ教科書に墨を黒々と塗らせながら、これがもたらす意味をいろいろに考えさせられたのも此の頃であった。

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「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行

秩序運動行進

戦時中の団体行動は号令一下、軍隊式に行われたのであるが、
軍国主義を学校から一掃するとなると、号令をどのようにかけたらよいか、とまどう結果となった。

21年8月27日付で教育民生部長名の「秩序、行進、徒手体操等実施について」という通達に当時の様子をうかがうことができる。
秩序、行進、徒手体操等実施について
終戦後の学校体育については、夫々万全を期せられていることと存じますが、なお細部については種々疑問等も生じ、これを参考として、その取扱に遺憾のないようにしてください。

秩序運動として必要な命令、号令、指示、
例えば「気を付け」「休め」「右、左向け」「廻れ右」「整頓」「番号」等は最小限 度に止め、
かつ軍事的色彩がなく愉快な気持を与えるように行なうならばさしつかえない。
しかし、それ自体反覆訓練することは避けねばならない。

隊列を組んでの行進は場所を移動する目的で行なうならば、
従来行なっていたような正常歩行進や音楽に合わして調子よく歩くことはさしつかえない。

・・・

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