しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

茂平名産「干しイチジク」を作る

2022年03月24日 | 農業(農作物・家畜)

干しイチジクは、まさに”珍菓”だった。
おいしい程でもない、が不味くもない。
お菓子がない時代の役割を、わずかではあるが果たしていたように、今思う。

・・・・

 

(実家にて)


(父の話)

始まりはカタヤマのおじいさんが始めたのが、明治の中ごろじゃろう。

干しイチジクは茂平では2軒、ウチとカタヤマにあつめそこから金浦にある神戸屋に出荷していた。
「こうべや」は、普段は八百屋をしとった。こうべやにはウチとカタヤマが契約しとった。
「こうべや」は言うとけば箱を持ってきてくれて、
取りに来て、持っていんで、そうやってまた来て。

農協はとおさず直接取引きであった。
おいしければよう売れとった。

相場のよい年もあった。昔から(自分の子供の時から)ホシイチジクはつずいていたが、硫黄のことで突然なくなってしまった。


無花果は捕ったその日に硫黄炉にいれて一晩蒸す。
硫黄炉にはいるだけのイチジクを取ってきていた。

それからは天火で干して一週間ほどしてから、手でもみ始める。

夏から採って始めていたが、珍しいといって大阪から大学の先生が見にきていた。
秋になると山陽新聞が記事の取材にきていた。
(毎年山陽新聞にはこの季節になると、コラム欄のような小さな記事で・・・今年も茂平ではホシイチジクが・・・と載っていた)


砂糖がういてくるまでそうしとった。
雨がふってきたら、重ねて積んでほろをかぶせとった。


(茂平ではイチジクの事をトウガキと呼んで、食用は「赤トウガキ」。干し無花果になるのを「白トウガキ」と呼んでいた。
白トウガキは糖分が多くつまみ食いをするには、こっちのほうが美味しかった。が、白い汁がきつく秋になるとよく口が切れていた。)

白トウガキは何処の家もうえていたのではない。
赤トウガキに比べると土壌に向き、不向きがあった。
つくるのは赤トウガキよりいたしいくらいじゃ。
水もいるし、新涯みたいなとこでないと採れなんだ。
新涯のがいいのが出来ていた、ほかの(他の畑で作ったのは)は熟れるんがおそいんと、甘味がすくない。実がおおききなるばかりで、みょうたらわかる。

・・・・

お菓子が世に出回りした昭和40年過ぎ、茂平名産「干しイチジク」はひっそりと消えていった。

 

 

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麦を作る③小麦粉

2022年03月24日 | 農業(農作物・家畜)

小麦

小麦は冬作物で、春に播いて秋に収穫するイネとは、作期上の競合はない。
麩(ふ)は精進料理の素材として重宝されてきた。
醤油は、水と小麦と大豆に発酵が加わってできた食品である。
製法は小麦と大豆を加熱し、さましたうえで麹菌をさようさせて発酵させたところに食塩水を加えてさらに発酵させ、寝かした後に搾って作る。
醤油が今のかたちになったのは室町時代以降のことといわれ、
それ以前は搾る前の醤(ひしお)が調味料として使われていたらしい。

小麦粉を水に溶いて作る食品は、
うどん、そうめん、ほうとうなど。
焼く、煮る、ゆでる、という方法があり
豚まん、あんまん、ワンタン、餃子、ドーナツ、揚げパン、お好み焼き、たこ焼き、もんじゃ焼き、などがある。

「食の人類学」 佐藤洋一郎 中公新書 2016年発行


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(父の話)

はったい粉(煎粉・いりこ)
どこにも精米所があった。大宣にも、伏越にも。大門にもあった。
麦は香りがええ。

(母の話)

昔は粉引き屋があった。
大宣にあった。

今大工をしょうる近くに。松浦。カシワにするにゃあぜっぴもっていきょうた。
そこへ持っていけば精米する機械があった。そこで挽いてくりょうた。
麦は漁師に頼みょうた。船で伏越に毎日行くので、それにたのみょうた。
よう、ことずきょうた。毎年ことずきょうた。
結構に挽いてくりょうた。

はったい粉は香りもええし、麦じゃけい身体に為もええ。

談・2001年10月7日
・・・・

(母の話)

金浦からは小麦を買いにきょうた。小麦を出せば、ちいとばあ「せんべい」をくれてんじゃ。
大事にしておやつにして食びょうた。

そのころはポン菓子が来ればようしょうた。
談・2002年10月14日

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「日本の食文化史」 石毛直道  岩波書店 

ウドンとソバ

ウドンやソバといった「切り麺」は、麺生地を麺棒で平にのばし、
何重にも折りたたんで、包丁で切ってつくる。
切り麺づくりには、たいした熟練を必要としないので
一般の台所でもつくることが可能である。
普及には、おおきな平面の板がたやすく得られる15世紀になってからである。
ウドンづくりの技術をソバ粉に応用して、16世紀から「ソバ切り」がつくられるようになった。
日本の二大麺類となったが、畑作地帯が比較的多い東日本ではソバ切りが好まれ、
気候が温暖で、水田にイネを収穫したあとの裏作としてコムギを作るのが可能な西日本の人々はウドンを好むようになった。


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「日本の食はどう変わってきたか」  原田信夫  角川選書  平成25年発行

ソバとウドン

日本の食文化のなかで、もっとも粉食が発達したのは、近世という時代であった。
その背景としては、粉食に必要な臼と水車の普及があった。
粉食の展開
粒食が主流とされていたが、実は餅や菓子に多用されていた。
豆腐を含めれば、粉食そのものは日本の食文化に不可欠なものであった。

粉食は、製粉という過程を経なければならず、非常な手間を要することになる。
その意味では、粒食が可能である米をわざわざ粉食とするのは、
いわばハレを演出するための工夫であった。
すなわち正月儀式や人生儀式などに、餅・菓子が供されるのは、
同じ米を用いながらも、節目にはケとは異なった味覚を楽しもうとする目的があったとすべきだろう。

基本的に穀類のうち、粟・稗・黍は混ぜ飯あるいは餅などとして、双方に利用された。

製粉に必要な道具は臼であり、これを水車という装置で利用することによって、
その効率を著しく高めることが可能となった。

臼は、
搗臼・挽臼・磨臼といった機能による分類。
堅臼・唐臼・てんがいと形態に分かれ、
木製・土製・石製の材料の酒類がある。

索麺は、小麦粉を食塩水で練って紐状としこれに綿実油を塗って細くのばして熟成させた後、天日で乾燥させたもので、長期保存が利くことから、
乾燥地帯では農家の冬の副業として広く生産されてきた。

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ママカリはもう食べたくない

2022年03月24日 | 食べもの

「ママカリ」は、おいしいので隣家から飯を借りる、という話が年に1~2度新聞に載ることがある。今朝もそうだった。
かつては、おいしいと思う人も、いたのだろう。好き好きだから。
魚が減った今では、おいしいと思う人も多いだろう。身近な魚でなくなったから。

ママカリは雑魚で、子供の時、朝昼晩、それも毎日のように季節によっては食べた。あれだけ食べると、もうほしくはない。





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ままかり

(母の話)


焼く、酢ズケ、・・・すぐ食べるときにゃぁ。

どうにもぎょうさんある時にゃぁ・・・・ぬかずけ。
ぬかずけ、米のヌカに塩をいれて。ヌカの甘味がぢょうた。
長しゅうもちょうた。一月も二月も。

ままかりも、つなしもそうしょうた。
おからに漬ければそっちのほうがよかったが、おからは金を出さにゃあ買えんけぇ。

2000・12・17

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ままかりといかなご

ままかりもつなしも、糠漬にしてながしゅうたびょうた。
ままかりは群れがきた時にゃただのようになりょうた。ほれで分けてもらようた。

2001年10月7日



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(姉の話)
ママカリ
(近所の漁師から)売り物にならんものを持ってきてくりょうた。
その代表がママカリ。
焼く
唐揚げ
焼いたのを酢漬け
骨ごと食べれておいしかった。
談・2017.1.30

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(母の話)

ほうろく

ツナシやママカリを焼く。青い松葉の上にツナシやママカリを置いて焼く。おいしゆう焼ける。
(七輪より大きく)ようけい焼けるけぇ勝手がよかった。
談・2004.5.30

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(父の話)
雑魚
笠岡へもっていかれん、傷んだりした雑魚をくりょうた。
じゃこ、ツナシ、ママカリ、フグ。
ママカリやこゼニになりゃあへん。
(母の話)
カスを浜に買いに行って糠ずけや塩ずけにしょうた。

談・2004.5.30

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