干しイチジクは、まさに”珍菓”だった。
おいしい程でもない、が不味くもない。
お菓子がない時代の役割を、わずかではあるが果たしていたように、今思う。
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(実家にて)
(父の話)
始まりはカタヤマのおじいさんが始めたのが、明治の中ごろじゃろう。
干しイチジクは茂平では2軒、ウチとカタヤマにあつめそこから金浦にある神戸屋に出荷していた。
「こうべや」は、普段は八百屋をしとった。こうべやにはウチとカタヤマが契約しとった。
「こうべや」は言うとけば箱を持ってきてくれて、
取りに来て、持っていんで、そうやってまた来て。
農協はとおさず直接取引きであった。
おいしければよう売れとった。
相場のよい年もあった。昔から(自分の子供の時から)ホシイチジクはつずいていたが、硫黄のことで突然なくなってしまった。
無花果は捕ったその日に硫黄炉にいれて一晩蒸す。
硫黄炉にはいるだけのイチジクを取ってきていた。
それからは天火で干して一週間ほどしてから、手でもみ始める。
夏から採って始めていたが、珍しいといって大阪から大学の先生が見にきていた。
秋になると山陽新聞が記事の取材にきていた。
(毎年山陽新聞にはこの季節になると、コラム欄のような小さな記事で・・・今年も茂平ではホシイチジクが・・・と載っていた)
砂糖がういてくるまでそうしとった。
雨がふってきたら、重ねて積んでほろをかぶせとった。
(茂平ではイチジクの事をトウガキと呼んで、食用は「赤トウガキ」。干し無花果になるのを「白トウガキ」と呼んでいた。
白トウガキは糖分が多くつまみ食いをするには、こっちのほうが美味しかった。が、白い汁がきつく秋になるとよく口が切れていた。)
白トウガキは何処の家もうえていたのではない。
赤トウガキに比べると土壌に向き、不向きがあった。
つくるのは赤トウガキよりいたしいくらいじゃ。
水もいるし、新涯みたいなとこでないと採れなんだ。
新涯のがいいのが出来ていた、ほかの(他の畑で作ったのは)は熟れるんがおそいんと、甘味がすくない。実がおおききなるばかりで、みょうたらわかる。
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お菓子が世に出回りした昭和40年過ぎ、茂平名産「干しイチジク」はひっそりと消えていった。