しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

コレラで死ぬ

2022年03月20日 | 暮らし
東大戸の木野山様

明治9年を皮切りに猛威をふるったコレラ病は一大惨事を巻き起こし、
この病業を免れようとする人々が昼夜の別なく参拝し、
ご分霊の請待も相次ぎ格別のご神威の発揚がありました。
当地方でも疫病が流行し実業家・高橋律太翁が高梁から分霊を請待してこの地に神社を建立されました。
人々はご利益を願って次々氏子になり現在も祀られています。

「大井の史跡・石碑・3」  大井文化探訪の会  2022年発行


・・・・・

(笠岡市東大戸・木野山神社  2021.3.14)




・・・・・・


「生きることの近世史」 塚本学 平凡社 2001年発行

コレラと戦争

蒸気船は「文明」とともにコレラを全世界に広げたのであった。
安政5年8月、江戸では1町に多い所では百余人、少ない町でも五、六十人の死者が出た。
土葬が一般的だった江戸で、悪疫を恐れて火葬を急ぎながら、施設不足からかえって放置死体が路上で臭気を発し、そこから伝染に怯える事態だったのである。

伝染性の病気であることは経験的に理解できていたから、隔離が有効な対策だったが、
それはまた患者やその周辺への過酷な目となって悲劇を生んだ。
疫病や田の虫などの災いを村界の外に追う古くからのオクリガミないしオクリビの行事が、一面でもっていた排他的な性格は、コレラ災害の中で強められたのではなかろうか。

コレラ禍は、安政、文久にもみられ、明治10年西南戦争従軍者からの流行被害が大きかった。
戦争による軍隊の移動が疫病の伝染役となるのは通例だったが、コレラの場合、
当初の大流行による恐慌以来、戦乱の不安を意識させる事態の進行をともなっていた。

西洋医学に依拠しての不潔退治、公衆衛生事業がやがて明治政府の重要な政策になっていく。
警察官によるコレラ患者宅の封鎖をはじめてとして、国家強権によるコレラ封じ込めが推進された。






・・・・・

(Wikipedia)
コレラ

コレラ菌を病原体とする経口感染症の一つ。治療しなければ患者は数時間のうちに死亡する場合もある。
日本で、最初に発生した文政コレラのときには、他の疫病との区別は不明瞭であった。この流行の晩期にはオランダ商人から「コレラ」という病名であることが伝えられた。
「虎列刺」と当て字がなされた。一方、民衆の中では語感から「コロリ」と呼ばれていた

症状
潜伏期間は普通は2~3日。
治療を行わなかった場合の死亡率はアジア型では75~80パーセントに及ぶ。
現在は適切な対処を行なえば死亡率は1~2パーセントである。


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「日本医療史」 新村拓著 吉川弘文館 2006年発行


伝染病と衛生行政

幕末から明治初期における急激な社会変動がもたらした人口の大幅な流動化によって、伝染病は全国に蔓延した、死者数も増加した。
住民の糞尿が肥料として使用されることが多く、コレラ・腸チフス・赤痢など消化器伝染病が発生すると、感染は一気に拡大した。
患者が発生すると自然治癒をまつしか手がなかった。

コレラ

コレラは、安政5年(1858)に大流行。
治療法・薬はなく、庶民の間では村境で鉄砲を打つコレラ退散祭りなどした。
人々はコレラを「トンコロ」と称して非常に恐れた。
政府の対策は検疫強化と侵入後の消毒・撲滅・遮断・隔離に重点がおかれた。

患家には縄が張られ、目印の黄色い紙が出された。
患者を天井裏に隠す例も少なくなかった。
文久2年1862)7月にも大流行、9月に入り衰えた。


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結核で死ぬ

2022年03月19日 | 暮らし
”結核”と”伝染病”は、「地震・雷・火事親父」なんかより、ずっと恐れられていた。




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戦争中、国民はほとんど栄養失調になってしまっていた。
結核が感染しても無理をするもんじゃけえ、こじらせて本当の肺結核に移行してしまった。
ほとんどの家に一人や二人はいた。
結核にかかると、皆死んでいった。
病人は、納戸の隅に寝ている。
そうなったら、あと二、三か月たったら死ぬ。
その頃にならんと医者を呼びにこん。

「梶島山のくらし・戦前戦後編」福山市・梶島山のくらしを記録する会 2012年発行


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瀧廉太郎の生涯

1901年(明治34年)4月、日本人の音楽家では2人目となるヨーロッパ留学生として、東部ドイツにあるライプツィヒ音楽院に留学。
わずか2ヶ月後に肺結核を発病し1年で帰国を余儀なくされ、
1903年(明治36年)6月29日大分市稲荷町の自宅で23歳という若さで亡くなりました。
「~府内に息づく魅惑の世界~ 瀧廉太郎の生涯/瀧廉太郎と作曲」


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「日本医療史」 新村拓著 吉川弘文館 2006年発行

結核

江戸時代に労咳などと呼ばれた結核の多くは肺結核であった。
空気感染であったので都市化と共に流行した。
一種の伝染毒であり、書生・奉公人・処女のままの人に多く、看病人・医者・針医・按摩にも伝染する。

女工と結核
結核は20世紀半ばまで、死病として恐れられてきた。
明治期の近代化の過程で、産業の発展と共に「国民病」となった。
女工
約7割が寄宿舎に入り、一日14~16時間労働 徹夜作業が状態
体重低下、発育不全。
石原は、劣悪な労働環境、長時間労働、寝具の共同利用と不衛生な寝室について記述し、これらが結核伝染の温床となったことを明らかにした。
問題は工場の外にも広がった。
結核に罹患し解雇された女工は、転々と職業を変えつつ都市で生活するか、帰郷することになる。
いずれの場合も治療を受けられないまま、辛い療養生活を送り、そのまま死に至るものも少なくなかった。


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「昭和③非常時日本」  講談社  平成元年発行

猛威をふるう「亡国病」

昭和11年から結核予防国民運動が始まった。
結核は、前年の昭和10年から死因の1位になっていた。
農村での結核患者急増は、兵士の供給を農村に依存している軍部にとっては深刻な問題だった。
しかも10代後半から20代の若者たちに結核による死亡率が高かったことが、政府にその予防対策を急がせた。

明治・大正は都会の工場労働者やスラム居住者たちに多い病気であり「貧民病」と呼ばれるほどだった。
ところが昭和になると、結核は農村にも広がり、やがて「亡国病」と呼ばれるまでになった。
特に繊維産業で働く女性たちは1.000人中23人が結核で死んでいったという。
帰郷した出稼ぎ青少年による二次感染が深刻化していたのである。

昭和12年には「結核予防法」が改訂された。
また、保健所法公布、結核療養所の官制化と政府は次々に対策を打ち出したが事態はなかなか好転せず、
昭和12年以降も死亡者は年々増加し、
昭和18年には人口100.000人に対し235人の死亡率に達した。






「生きることの近世史」 塚本学 平凡社 2001年発行

肺結核

明治以後20世紀前半の作家や詩人で、この病気に苦しみ死んだ人の多さは目をみはらせるほどである。
1918年には、結核の死者は、人口10万当たり257.1人で死亡順位の1位を占め、
以後30年近くにわたって他の病気に比べて圧倒的に高い死亡率を示した。
不治の病とされたこの病気の悩みと死の恐怖とは、社会の諸階層に通有のもので、
転地療養などの機会を得た人々に比べて特に悲惨でまた数も多かったのは、
村から都会に出て、きびしい労働条件と衛生環境のなかで労働者となった若者である。

慢性的な栄養欠乏状態にあるとき、結核菌はとくに猛威をふるった。
伝染する病気は不治とみなされ、しばしば遺伝するかにみられていた。
青白い顔の病人になって帰ってきた少女に、故郷の目は冷たかった。

貧と病は一体になっていた。
多くの青年をむしばむ結核は、「国の命」の観点からも恐るべき災厄であり、
1919年に結核予防法の制定以来、国による予防対策も試みらていった。
国が国民の生命の庇護者としてはたらこうとしたのである。
その効果は、この世紀後半に顕著になっていく。



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(笠岡市小平井 結核療養所施設跡 2022.2.28)


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トマトを作る

2022年03月19日 | 農業(農作物・家畜)
小学校の2年生の頃、神島の親類に行ったとき、庭から野菜の匂いがした。
あれの匂いはトマトだ。トマトが熟れているのが見えた。
それが生のトマトを見た初めてだった。
田舎では昭和30年代前半までトマトは自給作物の外だった。作っていなかった。

新品種で匂いが弱くなり、甘みが増した。それで一挙に普及した。
今では家製菜園の王さま、生でガブリ食いもおいしい。


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(父の話)

トマト

作って箱へ詰めて出しょうた。
(何年か出荷したのか?加工用だろうか)

共同で市場へ出しとった。
下のみのるさん方の家、あそこで(家が建つ前に)共同で変わったものをつくりょうた。
池もあるし。

(トマトは)作ったものをみんなに配りょうたが,食ようらなんだ。
それで市場へ出しょうた。今はみんなトマトを食べるが。

(トマトの出荷は昭和10年前後の話と思える。
田舎では昭和30年代前半までトマトは自給としてもほとんど作っていなかった。
ミニトマトにいたっては見たこともなかった)

談・2002年8月16日


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トマト
明治時代に栽培されるようになり、
サラダで食べるようになったのは、戦後のことです。
小学館の図鑑「野菜と果物」  小学館 2013年発行


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トマト
明治に渡来し、昭和期になってから急速に普及した。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

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スイカを作る

2022年03月18日 | 農業(農作物・家畜)
スイカ

中国では西域から来たことから「西瓜」と名づけられ、
わが国の呼称はこの漢名によるものである。
中国からわが国への渡来は南北朝時代と思われる。
スイカ栽培が普及するのは江戸時代の寛文年間(1670年頃)以降で、食用もこの頃から。
明治になると欧米から色々な品種が導入され、在来種との交配によって今日の栽培種のもとが生まれた。

「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行






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茂平もスイカ栽培は盛んだった。

ちょっとした衝撃で果実に割れが生じるので、収穫時では家族総出でリレーして荷車まで運んでいた。
運搬時も、ゆっくりと家に持って帰り、その後農協の園芸事務所まで持ち込みしていた。

後年、母はモグラの被害に悩まされた。
どの方法か忘れたがモグラを撃退に成功した。
ところが、次に
更なる難敵が空から現われた。
「今日は早いが、明日は熟れ頃」という時を見張ったようにカラスが食べに来る。
それも一つ丸ごと食べるのでなく、
どのスイカも嘴(くちばし)で、突いて一口食べて、大半のスイカを非商品化する悪さで、
これには母も心が折れて、スイカ作りは止めてしまった。

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シイタケを作る

2022年03月18日 | 農業(農作物・家畜)
かつて、わが家の晩秋の仕事の一つにシイタケの菌の植え付けがあり、
子どもの私もかり出された。
ドングリの木(アベマキ)を切り出すことからはじまり、原木を担いで下す。
手回しドリルで穴をあけ「種駒」を詰め込んだ。
かつてはコナラ、シイ、クヌギの風倒木や切株に自然発生するものを採取していたが、
江戸時代に菌の発生を促進する方法が述べられている。
昭和18年に「種駒」を原木に植え付ける方法が開発されて、シイタケ栽培は飛躍的発展を磨げた。

「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行


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(父の話)

何処の家にもちいとずつつくりょうた。
売らずに、自分の自給ように。
たべりょうじゃ。

今年も作ってうえときゃなあいけん。へぇ原木がのうなりだした。

談・2000・12・17


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シイタケ(椎茸)

香り高く風味もよい。
日本特産のキノコ。
シイタケはシイ、ナラ、クリ、カシなどの木に春と秋に自生する。
冬のものは肉厚で最高級として出荷される。
室町時代から食べられており、
江戸時代には栽培もおこなわれていました。

丸ごとか、スライスして、
セミドライは数時間、完全に干すには2~3日が目安。
失敗が少ない。
「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行


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鶏を飼う

2022年03月18日 | 農業(農作物・家畜)
かつて民家では2~3羽の地鶏を放ち飼したものである。
夜になると鳥屋にはいってねたのである。
一羽は必ず雄鶏を飼い、自然交配で孵化させた。
一番ドリが鳴いた、二番ドリが鳴いたで、などで仕事に出かけた。

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行ニワトリ




・・・・・
最初縁側の下で飼っていた。
次、昭和30年頃に養鶏場を作り養鶏を始めた。
その次、養鶏場ではゲージ飼いに変わった。昭和35年頃。
養鶏をやめて、その場所は農具倉庫になった。昭和40年頃だったかな。

・・・・

(父の話)

(縁側の下の)ニワトリ
コメの糠と、麦の食べれんいなげなの、コメも。
5~6羽飼ようた。
貯まったら売りょうた。

・・

(鶏小屋の)ニワトリ
小屋を建って、大部屋で一階と二階で飼ようた。新しい頃で卵をよう産んだ。
いっぺんに(建設費の)元がとれた。相場がえかった。

・・

(ゲージの)ニワトリ
ゲージでは生まなかった。生むのが少なかった。
餌を食うばあで、(養鶏業も増え)相場も落ちた。
2年目になると生まんのが増える、それはまとめて(食肉用に)売ったりしたが、(更に)元気のないのは殺して食びょうた。


ニワトリの糞
畑へもって行って肥にしょうた。


大冝の共同養鶏
のぶきさんらが共同でやった。
一年はえかったんじゃが、二年目に病気が来た。
どっからからか病気が移ってきて、大きな損をしたんじゃ。

談・2003.3.29


・・・・・





ブロイラー・卵・卵肉兼用、の3品種がある。
ブロイラー
21日間の孵化、生後50日で2.200~2.300gにまで成長し、
小型ブロイラーはこの時に出荷。
大型ブロイラーは生後55~60日で出荷、2.600~2.800gある。
「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行

・・
採卵鶏

孵化期間21日、雛は体温調整などの機能が不安定であるため、飼育農家がケアする必要がある。
エサはトウモロコシなどの穀物や魚粉をブレンドした配合飼料が与えられる。
孵化して約150日で卵を産み始める。
産み始めは小ぶりだが、だんだん大きな卵を産むようになる。
産卵のピークは210日前後。
産卵期間は1年~1年半。
次第に卵を産まなくなり、2年ほどすると加工肉として出荷される。
「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行


・・・・・

養鶏
戦後養鶏規模が拡大され、
昭和45年では263羽になり、55年では2.016羽と驚異的に規模は拡大した。
逆に飼育農家数は低下の一途をたどった。
昭和48年のオイルショックによる飼料の高騰、卵価の安さは農家を苦しめた。
矢掛町史


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鶏肉

鶏は、大抵の家で2~3羽飼っていた。
卵は保存しておいて、客がみえた時におかずにしたり、子どもの学校弁当に、時々いれたやった。
鶏肉は牛肉などより、早くから食べていて、正月、祭り、来客などの時に、殺して調理した。

「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行

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雑穀を作る

2022年03月17日 | 農業(農作物・家畜)
正月と旧正月の餅つきには、黍餅を2~3臼搗いていた。
黍餅は色も香りもよかったが、硬くなるの早かった。
黍は餅以外で食べた思い出はない。

・・・・・

「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版より

雑穀


黍(きび
黍には稲黍と高黍がある。
普通黍といえば稲黍をさす。
夏黍と秋黍にわけられる。二回収穫できる。
春蒔は8月、夏蒔は10月に収穫する。
昭和40年ごろから栽培しなくなった。

小豆
栽培の時期によって、夏小豆、秋小豆、中間型がある。
雨年は不作である、雨年はササゲの方がよい。
手間のかからない作物である。
赤飯、アンコなど小豆は必需品であった。
小豆相場といわれるように、値段の相違は著しい。
小豆、ササゲ、除虫菊、藺草などはとくに相場の変動が激しく、投機的ともいわれた。

・・・・・


大豆

製油用、豆腐、納豆、醤油
大豆は1970年代までは畑作が主流だったが、以降は水田での栽培が増えた。
現在は水田作が8割を占める。
国内自給率は6%。
輸入大豆は製油用、国産大豆は豆腐や納豆に使われる。
「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行

・・・
ダイズ
煮豆や炒り豆をはじめ、
豆腐、納豆、湯葉などの加工品、醤油、味噌のどの調味料として、
大豆食品はどこの家庭でも必ず毎日の食卓にのぼっている。
わが国ではイネやムギと並ぶ五穀の一つに数えられている。
イネに次ぐ重要な作物として認識されていた。
栽培の容易なダイズはわずかな土地でも有効利用することができ、田のはぜにも良く植えられた。
かつては、どこの農家でも収穫したダイズで自家製の味噌、醤油、豆腐などを手づくりしていたものである。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

・・・・・

だいず
日本には弥生時代にはいってきたようで、
奈良時代にはみそやしょうゆへの加工方法も伝わりました。
栽培が広まったのは鎌倉時代以降で、
仏教が肉食を禁じていたため、たんぱく質をだいずでおぎなう必要があったので、
日本人の生活に深くかかわってきた食材です。

(えだまめ)
じゅくしきらない若いだいず
(加工品)
とうふ
あげ
なっとう
みそ
しょうゆ
きな粉
豆乳
「米・麦・豆」 ポプラ社 2009年発行
・・・・

エダマメ(枝豆)大豆
大豆は夏大豆・秋大豆・中間大豆とあり。
吉備高原では葉タバコを栽培したあとに蒔いて大量生産している。
県下では水田の畔豆として作る。
「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版


・・・・・・

ササゲ
赤ササゲ・黒ササゲ・白ササゲとあり、小豆より粒は大きい。
雑草は生えにくく、労働力は少なくてすむが、収穫時には一家で畑に入って一莢(さや)ずつ手で摘み取る。
平槌で叩いて脱穀し、唐箕にかけて穀粒とカスに分ける。
「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版




(高黍・笠岡市カブト西町)

(父の話)

黍(きび)

黍のほうがけっこう(綺麗)で、ようできる。

黍のほうが味がええ。
団子にしたら黍のほうがおいしい。
もち米をちぃと混ぜるとモチのようにおいしい。
もち米が少ないんで、黍を混ぜて搗きょうた。
もちと同じようにあった。

粟(あわ)

黍は稲の穂みたいじゃが、粟は団子の穂になる。

(母の話)
賀山には黍より、粟のほうをよく植ようた。
粟より、ちぃと色が薄い。

2001年10月7日



・・・・・

「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行

雑穀
米・麦以外の穀物を「雑穀」と呼びます。


アワ
黄色い、うるち種はアワおこし、飴など。
もち種はアワ餅、だんごなどに。米といっしょに炊いてもよい。
キビ
うるち種、もち種がある。餅やだんご、菓子などに使われる。
ハト麦
卵形の種子。煎じたものがハト麦茶。かゆにしたり、だんご・パンに使う。
押し麦
大麦を加熱して、圧縮してつぶしたもの。米に混ぜて炊く。
ソバ
三角形の形が特長。ひいて粉にして打ち、麺にする。
タカキビ
草丈が高いので名付けられた。
白米と一緒に炊くと赤飯のような色になる。

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「砂に消えた涙」

2022年03月17日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
「砂に消えた涙」は、なにか乙女ごころを上手く表現しているなと高校生の時に思った。
曲も感傷ムードがある洋楽で、歌唱力に定評があった弘田三枝子が歌いヒットした。

・・・・・




砂に消えた涙 訳詞・漣健二

青い月の光を浴びながら
私は砂の中に
愛の形見をみんなうずめて泣いたの
ひとりっきりで ア、ア、ア、
あなたが私にくれた
愛の手紙 恋の日記
それのひとつひとつのものが
いつわりのプレゼント
白い波の打ちよせる海辺で
私は砂の中に
恋の想い出みんなうずめて
泣いたの ひとりっきりで


・・・・・・

飯田久彦(チャコちゃん)や坂本九(キュウちゃん)や弘田三枝子(パンチのミコ)の歌う歌の詞は、そのほとんどが漣健二だった。
洋楽は漣健二がいないと成り立たない、と思えるほど有名な訳詞家だった。
洋楽を聴く初め頃、森山佳代子の「月影のナポリ」という曲があった。
まだ小学生だったが、リズムやテンポはいいが歌詞はでたらめなような気がした。

訳詞家は直訳ではなく、実際はどんな感じで訳すのだろう?
数々の訳詞で知られるなかにし礼氏から転用した。

・・・・・・

「生きるということ」 なかにし礼  毎日新聞出版  2015年発行

(シャンソンとの出会いは)
18歳後半でした。食うや食わずでアルバイトのシャンソン喫茶「ジロー」のボーイでした。
シャンソンを日本の歌手が歌って、へぇー、日本語の歌詩があるんだと知るわけです。
フランス文学が好きだったからフランス語の基礎勉強はしていた。
そんな時、石井晶子というシャンソン歌手から「あんた訳詩やってみない」と言われました。
当時店の時給は23円でした。
訳詩をやって石井さんがくれたのは一曲五百円。
石井さんが僕の訳したシャンソンを歌って、僕のところに注文がくるようになった。

(「なかにし礼」の誕生ですね)
異常なほど売れたんですよ。
一曲千円になり、月に七十曲のときもありました。
自力で大学を卒業できた。
日本語のアクセントを壊さずに向こうの歌にのせて、原詩の意味と哲学を殺さずにやっていくといのうは、難しいけれど面白いわけね。
小さな歓喜が積みあがって大きな歓喜に至るという体験を毎晩味わっていました。

(裕次郎との出会い)
僕は訳詩がフランス文学の流れを汲んでいてインテリジェンスにみちた仕事だと思っていて、歌謡曲を書くなんて考えもしかった。
まったくの偶然で、ホテルで裕さんに会い「なんで日本の流行歌を書かないのよ」と。
裕さんの映画「太平洋ひとりぼっち」に「王将」を歌うシーンをみて、
歌謡曲というのも状況により人の心にしみるんだなあと感じ、
日本人の心を動かしてみようじゃないか。
僕が書いた歌が売れて本当にうれしかった。


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林芙美子の戦争協力

2022年03月15日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
日中戦争(1932~1945)には、多くの文化人や芸能人、歌手も力士も、軍の要請で慰問等に訪れている。
作詞家・作家の、なかにし礼氏は、著書のなかで林芙美子の行動が許せないと書いているが、彼女が作家として調子に乗りすぎて表現しているに加え、人間としての感性を疑っているからだろう。
ああいう時代ではあった。
でも、言わない自由はあったし、言わない人は多くいた。
なかにし氏も言うように「沈黙の余地」があったのはちがいない。

・・・・・・




「生きるということ」 なかにし礼  毎日新聞出版  2015年発行

林芙美子の戦争協力をいま考える

林芙美子(1903~1951)は自らの貧しい生活体験を赤裸につづった日記体の小説『放浪記』(1930)の成功で一躍売れっ子作家になった。
しかし文壇では貧乏を売り物にする素人小説家などと陰口をたたかれ、なんとか一発、世間をあっと言わせるようなものを書きたいと切歯扼腕する思いでもあった。
そこで林は、時流に乗るようにして自ら進んで名乗りをあげ、1937年、南京攻略戦にひきつづく戦いに大手新聞社の特派員として戦地におもむき、
武漢作戦にも内閣情報部の「ペン部隊」の紅一点として従軍した。

その見聞をもとに『戦線』と『北岸部隊』を書いて文字通り世間をあっと言わせ、女流作家の第一人者となった。
しかし敗戦を迎えたあとは「太鼓たたいて笛ふいて」戦意高揚宣伝ガールをつとめたことを大いに悔い、その慚愧の思いをもとにして、数々の反戦ものを書き、ついには『浮雲』という傑作をものにし、四十七歳で逝った。

林芙美子の「転向」は凛々しいものだったのか、
また「過去のあやまち」は償えるものなのかどうか、考えさせられもした。

・・・

1937年12月、日本軍は南京を占領したが戦火はやまず、戦線は拡大する一方であった。
翌年5月には「国家総動員法」が施行され、国内に軍事色が濃くなっていく。
1938年8月23日、内閣情報部は菊池寛(作家・文芸春秋社長)、久米正雄以下文壇の重鎮12人と相談し
「文壇から20人のペンの戦士を選んで陥落間近な漢口の最前線へ送る」
という文壇動員計画を発表した。
この時、林芙美子が手をあげたのである。
「是非ゆきたい、自費でもゆきたい」
というわけで陸軍(第六師団)の漢口攻略に随行し、従軍記『戦線』を書いた。
それは大ベストセラーになった。



抗戦する支那兵を捕えたら兵隊のこんな会話をきいたことがあります。
「いっそ火焙りにしてやりたいくらいだ」
「馬鹿、日本男子らしく一刀のもとに斬り捨てろ、それでなかったら銃殺だ」
捕らえられた中国兵は実に堂々たる一刀のもとに、何の苦悶もなくさっと逝ってしまいました。


慄然とする光景である。
しかし林芙美子は眉一つ動かす気配もない。


部隊長の話では「味方の戦死者は5名、負傷者は81名です」
そして敵の損害は約7万。

丘の上や畑の中に算を乱して正規兵の死体が点々と転がっていた。
その支那兵の死体は一つの物体にしか見えず、
城内に這入って行くと、軒なみに、支那兵の死体がごろごろしていた。
沿道の死体は累々たるものであった。
しかも我軍勢は、沢山の土民や捕虜を雑役に使っております。
この戦場の美しさ・・・



林芙美子は中国の人々を虐殺する帝国軍閥とともに行動し、
日本の若者たちを戦場に送り込むことに協力したのである。

「戦争中の積極的な協力者が戦後民主主義に改宗したか。
改宗しなければ盗人たけだけしいだろう。
改宗すれば、引退するのが常識だろう」
(加藤周一『戦争と知識人』)

沈黙の余地は最後まであったのだから。


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「作家の使命・私の戦後」  山崎豊子 新潮社 2009年発行

追悼・石川達三

私が、戦時中『生きてゐる兵隊』を書かれた時、掲載誌「中央公論」は発売禁止になり、
石川先生は特高の取り調べを受けられた時のことをお尋ねすると、
作家として筆を持つ限り、それぐらいの勇気と社会的責任は、当然持つべきだと答えられた。
石川先生ほどの深い文学理念には及ばないが、強い共感を覚えたことを、
今もって覚えている。

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白い脚の記憶

2022年03月14日 | 昭和16年~19年
白い脚の記憶

「歴史の温もり」 安岡章太郎歴史文集  講談社 2013年発行

戦時中、外地に従軍していた慰安婦には軍が関与していた、
とそんなことが最近になって言い出されたのは何なのか私は不思議な心持ちになる。
だいたい軍の関与なしに従軍慰安婦なるものが存在するわけは有り得ないではないか------。

私が軍隊で行っていたのは、旧満州のソ連国境に近い孫呉だが、
そこでも師団司令部の近くに慰安所があって、営門に「満州第何百何十何部隊」とした大きな標札が出ており、誰の眼にもそれが軍の関与する施設であることは明らかだった。
もっとも、私たち初年兵は演習のないときは、内務班に居残って、古兵の下着の洗濯や靴磨きなんかにコキ使われるだけだった。





土堤のうえを吹き抜ける川風は、サラリとして快い。
私たちは草原に腰を下ろして、爽涼の気分を満喫していた。
すると班長のE軍曹が、
「見ろよ、慰安所の姐さんたちはお茶っぴきらしいぜ」、
ふだんマジメなE軍曹がこんな言葉を口にするとは、私は意外だったが、
言われてみるとなるほど、
川の浅瀬のところで若い女たちが五、六人、水をはね上げて駆け廻っている。
しかし、その姿は私の考えていた「慰安婦」とは一致し難く、ただの娘さんとしか思えなかった。
彼女らは、どうやら小魚を浅瀬の洲の中に追い込もうとしているらしく、
なかで大柄な二、三人が水の中で手拭を拡げながらこっちの方へやってくる。
大きな麦藁帽子に隠れて顔はよく見えなかったが、たくし上げたスカートから覗く脚は、まぶしいくらい白かった。
--女の子の脚とはあんなにもまっ白いものだったのだろうか。
私は、そんなことを口の中でつぶやきながら、しばし茫然となっていた。

部隊が南方へ出発したのは、それから二週間ほど後であった。
上海経由、フィリピンに向かった第一師団が、
火砲弾薬の劣勢にも拘わらず、よく戦ってアメリカ軍を苦しめ、みずからはほとんど全滅するまで力闘したことは戦誌のしるすとおりである。


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従軍慰安婦

「天声人語」 辰濃和男  1985・9・19

特要隊と呼ばれる慰安婦だった城田さん(仮名)は、私は女の地獄を見たと訴える。
六十をすぎた城田さんに会った。
話はパラオ諸島での特要隊のことになった。
「台湾の娘さんがカエリタイカエリタイといっていた。
朝鮮半島の娘さんも、カエリタイヨオッカサンといっていた。
何人もの仲間が爆撃で死んだ」
日本の女性を含め、彼女たちは軍需物資並みに扱われた。
軍馬と共に船底に押し込まれて運ばれることもあった。
軍隊の暗部を今さら、という人もいるだろう。
だが、軍需物資として消耗品品のように捨てられた女性たちの存在はやはり、
戦争史に刻まれねばならぬ。



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