しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

雑穀を作る

2022年03月17日 | 農業(農作物・家畜)
正月と旧正月の餅つきには、黍餅を2~3臼搗いていた。
黍餅は色も香りもよかったが、硬くなるの早かった。
黍は餅以外で食べた思い出はない。

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「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版より

雑穀


黍(きび
黍には稲黍と高黍がある。
普通黍といえば稲黍をさす。
夏黍と秋黍にわけられる。二回収穫できる。
春蒔は8月、夏蒔は10月に収穫する。
昭和40年ごろから栽培しなくなった。

小豆
栽培の時期によって、夏小豆、秋小豆、中間型がある。
雨年は不作である、雨年はササゲの方がよい。
手間のかからない作物である。
赤飯、アンコなど小豆は必需品であった。
小豆相場といわれるように、値段の相違は著しい。
小豆、ササゲ、除虫菊、藺草などはとくに相場の変動が激しく、投機的ともいわれた。

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大豆

製油用、豆腐、納豆、醤油
大豆は1970年代までは畑作が主流だったが、以降は水田での栽培が増えた。
現在は水田作が8割を占める。
国内自給率は6%。
輸入大豆は製油用、国産大豆は豆腐や納豆に使われる。
「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行

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ダイズ
煮豆や炒り豆をはじめ、
豆腐、納豆、湯葉などの加工品、醤油、味噌のどの調味料として、
大豆食品はどこの家庭でも必ず毎日の食卓にのぼっている。
わが国ではイネやムギと並ぶ五穀の一つに数えられている。
イネに次ぐ重要な作物として認識されていた。
栽培の容易なダイズはわずかな土地でも有効利用することができ、田のはぜにも良く植えられた。
かつては、どこの農家でも収穫したダイズで自家製の味噌、醤油、豆腐などを手づくりしていたものである。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

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だいず
日本には弥生時代にはいってきたようで、
奈良時代にはみそやしょうゆへの加工方法も伝わりました。
栽培が広まったのは鎌倉時代以降で、
仏教が肉食を禁じていたため、たんぱく質をだいずでおぎなう必要があったので、
日本人の生活に深くかかわってきた食材です。

(えだまめ)
じゅくしきらない若いだいず
(加工品)
とうふ
あげ
なっとう
みそ
しょうゆ
きな粉
豆乳
「米・麦・豆」 ポプラ社 2009年発行
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エダマメ(枝豆)大豆
大豆は夏大豆・秋大豆・中間大豆とあり。
吉備高原では葉タバコを栽培したあとに蒔いて大量生産している。
県下では水田の畔豆として作る。
「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版


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ササゲ
赤ササゲ・黒ササゲ・白ササゲとあり、小豆より粒は大きい。
雑草は生えにくく、労働力は少なくてすむが、収穫時には一家で畑に入って一莢(さや)ずつ手で摘み取る。
平槌で叩いて脱穀し、唐箕にかけて穀粒とカスに分ける。
「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版




(高黍・笠岡市カブト西町)

(父の話)

黍(きび)

黍のほうがけっこう(綺麗)で、ようできる。

黍のほうが味がええ。
団子にしたら黍のほうがおいしい。
もち米をちぃと混ぜるとモチのようにおいしい。
もち米が少ないんで、黍を混ぜて搗きょうた。
もちと同じようにあった。

粟(あわ)

黍は稲の穂みたいじゃが、粟は団子の穂になる。

(母の話)
賀山には黍より、粟のほうをよく植ようた。
粟より、ちぃと色が薄い。

2001年10月7日



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「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行

雑穀
米・麦以外の穀物を「雑穀」と呼びます。


アワ
黄色い、うるち種はアワおこし、飴など。
もち種はアワ餅、だんごなどに。米といっしょに炊いてもよい。
キビ
うるち種、もち種がある。餅やだんご、菓子などに使われる。
ハト麦
卵形の種子。煎じたものがハト麦茶。かゆにしたり、だんご・パンに使う。
押し麦
大麦を加熱して、圧縮してつぶしたもの。米に混ぜて炊く。
ソバ
三角形の形が特長。ひいて粉にして打ち、麺にする。
タカキビ
草丈が高いので名付けられた。
白米と一緒に炊くと赤飯のような色になる。

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「砂に消えた涙」

2022年03月17日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
「砂に消えた涙」は、なにか乙女ごころを上手く表現しているなと高校生の時に思った。
曲も感傷ムードがある洋楽で、歌唱力に定評があった弘田三枝子が歌いヒットした。

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砂に消えた涙 訳詞・漣健二

青い月の光を浴びながら
私は砂の中に
愛の形見をみんなうずめて泣いたの
ひとりっきりで ア、ア、ア、
あなたが私にくれた
愛の手紙 恋の日記
それのひとつひとつのものが
いつわりのプレゼント
白い波の打ちよせる海辺で
私は砂の中に
恋の想い出みんなうずめて
泣いたの ひとりっきりで


・・・・・・

飯田久彦(チャコちゃん)や坂本九(キュウちゃん)や弘田三枝子(パンチのミコ)の歌う歌の詞は、そのほとんどが漣健二だった。
洋楽は漣健二がいないと成り立たない、と思えるほど有名な訳詞家だった。
洋楽を聴く初め頃、森山佳代子の「月影のナポリ」という曲があった。
まだ小学生だったが、リズムやテンポはいいが歌詞はでたらめなような気がした。

訳詞家は直訳ではなく、実際はどんな感じで訳すのだろう?
数々の訳詞で知られるなかにし礼氏から転用した。

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「生きるということ」 なかにし礼  毎日新聞出版  2015年発行

(シャンソンとの出会いは)
18歳後半でした。食うや食わずでアルバイトのシャンソン喫茶「ジロー」のボーイでした。
シャンソンを日本の歌手が歌って、へぇー、日本語の歌詩があるんだと知るわけです。
フランス文学が好きだったからフランス語の基礎勉強はしていた。
そんな時、石井晶子というシャンソン歌手から「あんた訳詩やってみない」と言われました。
当時店の時給は23円でした。
訳詩をやって石井さんがくれたのは一曲五百円。
石井さんが僕の訳したシャンソンを歌って、僕のところに注文がくるようになった。

(「なかにし礼」の誕生ですね)
異常なほど売れたんですよ。
一曲千円になり、月に七十曲のときもありました。
自力で大学を卒業できた。
日本語のアクセントを壊さずに向こうの歌にのせて、原詩の意味と哲学を殺さずにやっていくといのうは、難しいけれど面白いわけね。
小さな歓喜が積みあがって大きな歓喜に至るという体験を毎晩味わっていました。

(裕次郎との出会い)
僕は訳詩がフランス文学の流れを汲んでいてインテリジェンスにみちた仕事だと思っていて、歌謡曲を書くなんて考えもしかった。
まったくの偶然で、ホテルで裕さんに会い「なんで日本の流行歌を書かないのよ」と。
裕さんの映画「太平洋ひとりぼっち」に「王将」を歌うシーンをみて、
歌謡曲というのも状況により人の心にしみるんだなあと感じ、
日本人の心を動かしてみようじゃないか。
僕が書いた歌が売れて本当にうれしかった。


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