スイカ
中国では西域から来たことから「西瓜」と名づけられ、
わが国の呼称はこの漢名によるものである。
中国からわが国への渡来は南北朝時代と思われる。
スイカ栽培が普及するのは江戸時代の寛文年間(1670年頃)以降で、食用もこの頃から。
明治になると欧米から色々な品種が導入され、在来種との交配によって今日の栽培種のもとが生まれた。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行
・・・・・
茂平もスイカ栽培は盛んだった。
ちょっとした衝撃で果実に割れが生じるので、収穫時では家族総出でリレーして荷車まで運んでいた。
運搬時も、ゆっくりと家に持って帰り、その後農協の園芸事務所まで持ち込みしていた。
後年、母はモグラの被害に悩まされた。
どの方法か忘れたがモグラを撃退に成功した。
ところが、次に
更なる難敵が空から現われた。
「今日は早いが、明日は熟れ頃」という時を見張ったようにカラスが食べに来る。
それも一つ丸ごと食べるのでなく、
どのスイカも嘴(くちばし)で、突いて一口食べて、大半のスイカを非商品化する悪さで、
これには母も心が折れて、スイカ作りは止めてしまった。
・・・・
中国では西域から来たことから「西瓜」と名づけられ、
わが国の呼称はこの漢名によるものである。
中国からわが国への渡来は南北朝時代と思われる。
スイカ栽培が普及するのは江戸時代の寛文年間(1670年頃)以降で、食用もこの頃から。
明治になると欧米から色々な品種が導入され、在来種との交配によって今日の栽培種のもとが生まれた。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行
・・・・・
茂平もスイカ栽培は盛んだった。
ちょっとした衝撃で果実に割れが生じるので、収穫時では家族総出でリレーして荷車まで運んでいた。
運搬時も、ゆっくりと家に持って帰り、その後農協の園芸事務所まで持ち込みしていた。
後年、母はモグラの被害に悩まされた。
どの方法か忘れたがモグラを撃退に成功した。
ところが、次に
更なる難敵が空から現われた。
「今日は早いが、明日は熟れ頃」という時を見張ったようにカラスが食べに来る。
それも一つ丸ごと食べるのでなく、
どのスイカも嘴(くちばし)で、突いて一口食べて、大半のスイカを非商品化する悪さで、
これには母も心が折れて、スイカ作りは止めてしまった。
・・・・