しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「小島通いの郵便船」

2022年03月06日 | 昭和の歌・映画・ドラマ



青木光一にはいい歌が多い。
「早く帰ってコ」
「柿の木坂の家」そして、
「小島通いの郵便船」。


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笠岡湾や瀬戸内海にはいつも大小の船が見えていたが、その中でも笠岡港から出た船にはあこがれがあった。
一度乗ってみたい。
いつも思っていたが、それは夢にすぎなかった。







海をへだてた 二つのこころ
思い通わす 便り船
いとしあの娘も ミカンの木陰
待っているだろ 小島通いの 小島通いの
郵便船

「小島通いの郵便船」 作詞・上尾美代志 作曲・平川英夫






たぶん明治時代に郵便制度が始まったころは、郵便船は郵便物しか積んでいなかっのだろう。
島の人々は、島で自給自足の生活ができてたいが、次第に町に行くことも増え、
郵便船に便乗するようになってきたのが、三洋汽船の前身だろう。

今も飛島(ひしま)の人は三洋汽船の旅客船を”郵便船”と呼ぶそうだ。





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画像はすべて、笠岡市飛島にて

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ビワを作る

2022年03月06日 | 農業(農作物・家畜)
子供にってビワは、田植えが終わった代満(しろみて)のご馳走に添えられる果物だった。
実家の母屋の隣に、大きな枇杷の木が二本あった。

山の畑にも枇杷の木が数本あった。
茂平の果物では、いちばん大きな木が枇杷だった。

皮をむくと、すっぱい甘みと、大きな種(さね)が特徴だった。
茂平には、比較的多い果物だった。




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(父の話)
「びわ」はなぜ主でないのか?

茂平の農家にはビワ畑がある。どの農家にも。だが桃やイチジクのように主流ではない、しかしビワを作っている。なぜか?

ウチにも「うつろ」でつくっていた。
熟れても安ぅはあるし、骨がおれるんじぁビワは。

ビワは昔はようけい作りょうて、ちぎって出しょうたが。めんどくさいのでだんだん作らんようになってきた。

ちぎってもえんもありゃ、悪いんもある。
ちぎるのも木が大きょうて登らにゃあ取れん。

ビワの木には、枝と枝の間に板を掛け。その板を足場にして袋掛けやもいでいた。

食べるほうも、中味は種が大きぅて実があんまりない。種ばぁじゃ。

「茂木」はちいと甘いが、「田中」はちいと酸ぃ、大きいけど。
茂木のほうが美味い。



カンズメようには?

量がすくないんで出しょうらなんだ。みな(生食ようとして)福山に出しょうた。


2002年6月23日




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「日本の農業4果物をそだてる」 岩崎書店 2010年発行

ビワ

常緑高木果樹で、約10mの樹高になるものもあります。
中国や日本の南部に自然に生えていました。
中国から伝わったビワが、大きくておいしい果実をつけているのが見つかり、広がりはじめました。
見つかった長崎県の地名から「茂木」と名づけられ、今でも「茂木ビワ」として有名です。
関東より南の地域で栽培されています。
千葉県でつくられているのは「田中」という品種で、明治以降につくられたものです。
ビワは、他の果樹より早く5月の終わりごろから収穫できるので、有利に販売できます。
主に、生食として用いられていますが、缶詰やジャムにも加工されています。


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「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

枇杷

日本に自生していたようで、県南地方で家に近いところに一本程度植えておいて自給することがある。

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ビワ

見つかった長崎県の地名から「茂木ビワ」と呼ばれています。
ビワは他の果樹よりも早く5月終わりごろから収穫できるので、有利に販売できます。
主に生食ようですが缶詰やジャムにも加工されます。
「日本の農業4」 長谷川美典 岩崎書店 2010年発行

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ナシを作る

2022年03月06日 | 農業(農作物・家畜)
商品としての果物栽培は明治以降に始まり、
第二次世界大戦中の日本では”食糧”ではないと、栽培自体を否定する時代もあった。

父は果物栽培一筋の一生で、国繁の先人に方法を学んだりしながら、多くの果物を作ってきた。

今茂平には一本の梨の木も存在しないと思うが、戦前ではナシが代表果物だった。


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「物語・食の文化」 北岡正三郎 中公新書  2011年発行

果物

わが国で縄文時代に食用された果物はヤマモモ(山桃)、ヤマブドウ(山葡萄)、
キイチゴ(木苺)などだけで、
弥生時代になって、
モモ、スモモ、ウメ、ナシ、カキ、ブミ、ビワなどが大陸から伝来した。
縄文時代、クリ、クルミを含む堅果が多量に食用されたが、これらは主食であった。

中世以降主食、副食以外の嗜好食品または間食用の食品として、
菓子と同様の位置にあり、江戸時代には水菓子と呼ばれた。

現代ではデザートとしての食事の一部分を占め、菓子とは違った役割をもっている。
古代ローマでは果物は嗜好品ではなく、食膳の重要な食品で、肉、魚、野菜などと同列の扱いであった。

20世紀には果汁の利用がアメリカで盛んになり、缶詰、瓶詰、紙パック詰が大量生産されている。
香水、石鹸、化粧品、芳香剤にアロマが利用される。


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(父の話)

梨が多かった。
堂面・うつろ・しんがい、皆梨を植え取った。

腐って、予防しつきょうた。
雨が降りそうないえば予防、止めば予防。
タゴへ(予防薬をいれて)手押しポンプでするんじゃった
20世紀はおいしゅうて、おいしのができょうた。

やすうなりだしたんと、
腐るばあするんで、桃に植え替えた。(作者記・昭和20年代前半か?)

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(母の話)

梨の予防

梨はよく病気もちになり、
また相場によっては儲かる年もあった。

予防ばっかりしていたが、これがきつく辛い仕事であった。
当時は手押しポンプで予防をしっぱなしで、辛い仕事であった。

談・2000・1・16





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「日本の農業4」 長谷川美典 岩崎書店 2010年発行

ナシを育てる

ほかの多くの果樹が、江戸時代から明治に外国から入ってきたのにたいして、
ナシは古くから日本で作られ、品種改良されてきました。

明治に入って青ナシの「二十世紀」と赤ナシの「長十郎」が発見され、栽培が広がりました。
各地の気候に対応しやすく、全国各地で栽培されています。
20~40年間栽培できますが、「二十世紀」は雨が多いと発生しやすい黒斑病に弱いため、梅雨に雨の少ない鳥取県、長野県、福島県などが産地になっています。

ナシの栽培の特徴は、棚仕立てになっていることと、
受粉、摘果、袋掛けなどの細かい作業が多いことなどがあります。
棚仕立てにしてるのは、ナシの果実が台風が来る時期に成熟するからです。
木がゆれないので落果を防げます。


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「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


日本の中部以南に原生した日本梨、すなわちヤマナシが明治30年代に改良された長十郎や二十世紀が作られている。
岡山県では桃や葡萄とともに作られている。

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