しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和20年、食べる物がない③子ども

2023年08月08日 | 昭和16年~19年

映画「二十四の瞳」では、大石先生の幼子が空腹で何か生ものを食べ、食あたりで死んでしまう。
小学生くらいになると、自分で周辺の自然から、いくらか調達できるけど
いちばんの弱者は赤ちゃん。
母は近所の子、二人に乳を与えていたが、その二人とも結局亡くなってしまった。

 

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「日本食物史」 江原・石川・東四柳共著 吉川弘文館  2009年発行


食料確保と工夫

南瓜やさつまいもの栽培がさかんに奨励されると同時に、
ドングリやイナゴの食用化がすすめられた。

 


このポスターには
「とち、かし、なら、くぬぎは皆さんのおなかを一杯にさせる乾パンやあめやパンになります。
ウント拾って沢山食べましょう。
また、あるアルコールや牛の皮のなめすタンニンになります。
学校の先生の指導の下に、大いに拾って下さい。
農林省・日本林業会」
という文言がみえる。

子どもたちの力も徹底的に借りようという作戦であった。

 

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津之郷国民学校・小国民のつくるもの

「福山市津之郷町史」 ぎょうせい  2012年発行

昭和19・20年当時、
農村に残っている者といえば、婦人や老人、それに子どもばかりで、
食料生産にも労働力不足で、子どもといえども必要な労働力であって、
学校から帰るとすぐに家事の手伝いはもちろん学校でも、
毎日のように食糧増産のための農作業があった。
昭和19年から校庭も畑に利用されて、春・夏はカボチャや大豆・甘藷が植えられ、
カボチャの収穫後、秋は大根や葉物野菜が植えられた。

 

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「岡山県教育史」 岡山県教育委員会  昭和49年発行

昭和18年11月「岡山県学校防空指針」が制定され、
各学校の防空計画の基準が示された。
児童や女学校生徒は防空頭巾を携帯して登校した。
女子は活動の便からモンペをはくようになった。
学校では空襲にそなえて退避壕がほられた。

訓練警戒警報や訓練空襲警報のサイレンを合図に、毎日のように訓練が行われた。
しかし、学校の防空訓練は御真影の奉護と児童生徒の保護が最重点であった。
夏に綿入れの防空頭巾を頭いっぱいかぶり氏名、血液型を記した布を胸に縫い付けたスフの洋服を着て学校に通った。
岡山県内へ縁故疎開してくる児童生徒は日を追って増加した。
あいた校舎は工場や軍の施設として使用されることになった。
昭和20年4月以降の学校は軍隊か工場に使用され、
まるで、学校が校舎を借用しているかのようであった。


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