しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

イ草を作る

2022年01月29日 | 農業(農作物・家畜)

汽車に乗って岡山に行くとき、鴨方駅を過ぎる頃から藺草が車窓風景になった。
金光~玉島~西阿知~倉敷~中庄~庭瀬~岡山、そのすべてがイ草の風景だった。
特に中庄付近は印象深い。
しかし岡山から宇野線に乗った時は、もっとびっくりした。
妹尾~早島~茶屋町の辺りは見渡す限りのイ草の大平原だった。まあ驚いた。
今は全く残っていない・・・イ草も二毛作も・・・そのことにもまた、驚く。



(総社まちかど美術館)


「岡山県史 民俗1」
イ草(藺草)

藺草
早島町周辺はわが国屈指の綿作地だったが、明治20年代から藺草が広く栽培され、
都窪郡・倉敷市・岡山市・吉備郡南部が産地となった。
とくに、
早島町・岡山市福田地区・妹尾地区に多かった。
12月中頃から1月の寒中にかけて氷を割って田植えをする。
つらい作業である。

春になると急速に生長し、伸びすぎると品質が落ちるので、5月中旬頃先を刈って揃える。
7月20日前後の酷暑日に、若い屈強な人夫を使って刈りとりをする。
人夫の多くは、第二次大戦前は香川県から来ていたが、戦後は県内が多く、徳島・香川がこれに次いでいる。
刈り取った藺草は田の一隅に設けてある「ドブ」の藺泥で染め、その日のうちに乾燥させると、よい色のイ草になる。
色は白銀色がいいとされ、藺泥が大きく左右する。
藺泥は明石市の大蔵谷のものがよく、しかし近年は淡路産のものが入っている。
午前4時から午後9時まで、一日17時間もの骨身をけずる重労働であり、まさに、戦場のせわしさである。

売り値は年により激しい変動があり、好況の翌年には生産過剰となり、価格暴落の危険があった。
この投機的な動きはトンビと呼ばれる県内400人(昭和35年)の仲買人をふとらせ、農家は価格の変動に一喜一憂しなければならなかった。
よい年には小麦の19倍にもなったことがある。




(岡山県史)

・・・・

井原町史
藺草(いぐさ)

藺草は、昭和初期から十年代前半を通じて、稲倉村、県主村、木之子村で多く作られていた。
特に稲倉村や県主村では、藺草用の土が搾取できたことも良条件となった。県主村では、恐慌期に、染土のみ出荷が良好だったという。
藺草と対照的に、はっかと除虫菊は全町村で収穫された。


・・・・

(父の話)
藺草
茂平はない(きっぱり)
用之江も大冝もない。

談・2000.6.25

・・・・
「金光町史」
イ草

イ草栽培は、昭和30年代、岡山県南部で盛んになり、
昭和39年岡山県の総面積は5.550ヘクタール(全国の45%)に達した。
金光町でも、その頃が最盛期であった。
朝は4時から刈り始め、鎌はねさして土を切るくらいすれすれに刈る。
少しでも長く刈るためである。
イ草の処理が終われば、直ちに田へ水を張り、遅い田植えをする。


・・・・



昭和44年と45年にイ草刈の人夫になった。
朝の薄暗い時に起きて、ノドに飯を通して、田んぼに出た。
暗くなるまで仕事をして、晩飯を飲み込んで、すぐに寝た。
寝る前にビールを飲んだが、十数時間の真夏の仕事の後だけに美味かった。
(それ以来”呑兵衛”になり、今日まで持続している)

炎天下での10日間の重労働だったが、水分の補給を気にしたこともないし、誰かが日射病で倒れたという類の話もなかった。なぜだろうな?




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