しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

特高警察「公職追放」

2021年08月22日 | 昭和21年~25年
昭和20年8月15日の玉音放送を母は、
「それを言うんじゃ、ゆうて、みんな言ぅた」と、放送の始まる前に内容(敗戦)を理解していた。
そういう国民の声には出ないが、秘められた世論を特高警察は正しく分析していたようだ。

知っても現実を見ようとせず、”一億総玉砕”いっぽんの帝国陸軍よりは、特高警察の方が冷静だったようにみえる。
終戦後の特高警察の解体には、その冷酷で冷徹さがよく示されている。





「特高警察」 萩野富士夫 岩波新書 2012年発行

敗戦の予感

特高警察が敗戦不可避という認識をもつに至ったのは、
昭和20年春頃だった。

4月の小磯国昭から鈴木貫太郎への内閣交代時の「警保局長引継書類」では、
「民心の動向」について、
「ことに最近における敵の比島および硫黄島、沖縄等に対する侵寇ならび本土空襲の激化等、戦局の急展開に伴い、一般民衆は戦況の劣勢、戦局の不安感より著しく悲観的、敗戦的感情を濃化しつつあり」ととらえるようになった。
5月の警保局、
人心は「正に総浮腰」となり、不安動揺は全国的に拡大しつつあると観測する。
7月10日、警保局保安課旬報、
「沖縄島失陥に伴う民心の動向は極めて顕著なる敗戦感一色に塗りつぶされたるやの感ありて、
これに基因する厭戦、反戦、自棄的無気魄状態の推移は極めて警戒を要するものあるとともに、
空襲激化、生活逼迫に伴う戦争疲労感の台頭と相俟って敗北主義的気運の浸透を懸念さるるものあり。
他面において戦況不振の責任を責任を糾弾する反軍、反官、反政府思想の深刻化、一般化ある等、
今後における民心の推移は極めて注意を要するものと認めらる。」


「特高警察の解体」

昭和20年8月15日の玉音放送で、為政者の最大の関心は「国体護持」=天皇制の存続であったが、その一端は自他ともに特高警察が担うべきものとされた。
むしろ敗戦の事態にこそ、特高警察の本領が発揮されるべきと考えられた。
警保局は9月下旬までに翌年度の予算要求として特高警察の倍増案を立てている。
今後、食糧問題・失業問題・悪性インフレなど「各種の治安上困難なる事象」が予想され、
各府県を含めて1万人以上の増員を計画した。

廃止論の広がり

治安維持法の撤廃についてまだどこでも問題となっていないのは「不思議な立遅れ」だとして、
維持法の撤廃、違反者の釈放から出発すべきである。
特高への恐れが大勢を占めていた。
満州国などの特高警察は、大日本帝国の崩壊とともに消滅した。
10月4日,GHQは「政治的、公民的、宗教的自由に対する制限の撤去」をつきつけた。
治安維持法等の一切の弾圧諸法廃止
「政治犯」の即時釈放
特高警察の廃止と、全特高警察官の罷免などが指令された。
東久邇内閣は退陣するほかなかった。



(昭和20年10月5日・読売報知新聞)



公職追放

合計4.990人が罷免となった。
まず休職となり、のち「依願退職」で、全警察官に対する割合は約6%である。
朝日新聞は10月6日「治安維持にも姑息な態度」と内務省首脳部の認識と行動をの「低調浅薄」を指摘する。
GHQの「要求してきたものは譲る、向こうで気の付かないものは現状のまま」という姿勢に終始した。
罷免の不徹底
基準を10月4日の現職者とした。1/3以上が他の公職に再就職することができた。
「退職特別賜金」も出た。数年後には復帰者も多かった。


公職追放(第二弾) 昭和21年1月4日

「8年以上、または昭和16年以降4年間以上特高警察に従事」した警部以上の者。
当初の試算では10.500人の個別審査が予定されたが、86人が該当された。

「憲兵と特高の政治警察は、民主主義実現の一大障害をなすものであった。・・・
これが廃止によって、暗い空の晴れゆく明るさを感じたことは事実である」
1月11日朝日新聞「天声人語」欄は、大方の受けとめ方といっていよい。






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