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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和8年6月17日 「実録・天六交差点の対決」その二・福山市、軍・警の対決

2023年06月17日 | 昭和元年~10年

大阪のゴーストップ事件の2ヶ月前のこと。
福山で暴行事件があり、男を拘留した。
ところが、その男は福山聯隊の陸軍将校だった。
結局、警察が軍に謝罪し、事件は終わった。

 

・・・

「福山市史・下」  福山市 昭和58年発行

軍警抗争事件

異境で苦労しているであろう兵士への感謝の念と、
「暴支膺懲」の宣伝とが市民内部で相乗的に増幅して、
戦争支持が世論となり、批判の材料が与えられないまま無謀な戦争に引き込まれていったのである。
このようななかで、
昭和8年(1933)4月14日、
軍の横暴ぶりを示す象徴的な事件が起こった。
市内のカフェーで福山聯隊の中尉が暴行事件を起こし、
これを鎮めようとした巡査二人と衝突、これを取り押さえ、憲兵隊に引き渡した。

ところが憲兵隊長は、
「現役将校に手錠をかけ留置場に入れたのはけしからぬ」
と逆ねじをくわせ、
第五師団の安岡参謀長も
「中尉の行為は悪いが、侮辱した点を警察は謝罪せよ」
と迫った。

結局軍の横車がとおり警察が謝罪して「円満解決」した。
非は明らかに暴行した中尉にあったにもかかわらず、政治問題化し、
結局聯隊側の言い分に帰したのであり、
軍の横暴ぶりを端的に示した事件であるといえる。
聯隊長は地方都市では「小大名的存在」であっただけに、
時流にのった横暴事件が徐々に目だつようになっていった。

・・・

(福山歩兵41聯隊跡)

 

撮影日・2023.3.28

 

 

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昭和8年6月17日 「実録・天六交差点の対決」

2023年06月17日 | 昭和元年~10年

小学校の4年生か5年生の頃だたと思う、福山の駅前通りに交通信号機が出来た。
それが道路横断の信号機を見た初めてだった。
前を見ると赤、横を見ると青。
道とは歩くところと思っていたが、”停まる”ことも必要のようで、
何をどうすればいいのか解らず、一瞬不安になった。
結局、人の後をついて渡ったのをよく覚えている。

知られているように、
「人は右、車は左」は昭和22年に制定されたもので、
戦前には道路交通法もなく、車も数少なく、
人の一生は信号機を見ずに終えるのが普通だったのだろう。

警官は戦後こそソフトになり「お巡りさん」とも呼ばれるが、
戦前の「巡査」は権威を背景に居高くしていた。

警官が戦前偉ぶっていた時代、
商都大阪といえども、交通信号も滅多にない四つ角(今は交差点という)で、
道を渡ろうとした男性と巡査がけんかになった。
ところが、捕まえた男は兵隊だった。

 

・・・

陸軍は”皇軍の威信”にかかわると逆上。ついには天皇の耳にまで届いた。

・・・・

実録・天六交差点の対決(昭和8年)

「NHK歴史への招待23」 鈴木健二  NHK出版 昭和57年発行

 

(中村一等兵)

 

昭和8年6月17日、北大阪の通称天六交差点で小さな事件がおこった。
信号を無視しして渡ろうとした男に、巡査が注意した。
男は「憲兵以外の言うことはきかぬ」とけんかとなった。

男は陸軍第八聯隊の一等兵だった。
軍は、
「皇軍の威信に関する重大問題である」と警察に陳謝を求めた。

警察は、予期せぬ軍の強硬姿勢にがぜん緊張し、軍の発表から二時間半後に
「兵隊が私人で通行している時は、一市民として従ってもらいたい」と発表した。

こうして軍と警察は真っ向から対立することになった。
事件から9日後、
大阪府知事と第四師団参謀長が会談、一度、二度・・・決別。
一兵士と一警察官の争いは、第四師団と大阪府の対立に発展し、
「ゴーストップ事件」と呼ばれた。

 

(戸田巡査)

 

・・・・


当時国際連盟脱退などを通じて軍は、勢力を急速に台頭させ、
横暴ぶりを露骨に現わし始めていた。

一方、警察は特高を中心として、戦争に反対の共産党員を検挙するという実績をあげ、その力を国民に示していた。


・・・・


泥試合になっていった。

大阪憲兵は、巡査の尾行をつけ、身辺調査を始めた。
戸籍と名が違う、「府は無責任だ」。

警察は一等兵の過去を徹底調査、
「計7回の交通違反をしている」、
しかし馬糞の処理を怠ったとかいうささいなものばかり。

・・・

 

事件から一ヶ月後、ついに訴訟となった。
師団は憲兵隊へ告訴。瀆職(とくしょく)、傷害、名誉棄損などの罪。
市民の関心の高まりは、時代を反映してか、軍を応援するものが圧倒的に多く、
警察側には批判的な声が相次いだ。

・・・


事件から三ヶ月後、
大阪地方裁判所から第四師団および大阪府警に意見書が出された。
互いに刑事責任があり、喧嘩両成敗の判断を示した。
しかし、軍は激しく反発。謝罪の要求を崩さなかった。
暗礁に乗り上げた。

 

・・

10月半ばすぎ、
陸軍特別大演習が福井県で始まった。
天皇は荒木陸相に、
「大阪にゴーストップ事件なるものがあるそうだが、
あれはどうなったか?」
と下問があった。
陸相はただちに動き、急転直下、円満解決を見るに至ったのである。
第四師団参謀長と、
大阪府警察部長が、
互いに挨拶を交し合ってすべて水に流そうというものである。
そして、お互いに抱き合って終わった。

 

(和解する県警部長と師団参謀長)

 

(何も知らされず握手する、戸田巡査と中村一等兵)

・・・


それ以来、
警察の軍人に対する態度は消極的となった。
軍人や軍隊に手をつけることは我が身が危ないと身をもって知ったのである。

 

・・・


陸軍大演習がらみで解決(?)は、煙突男も知られている。

煙突男

川崎市の紡績工場の煙突に男が登った。
煙突の上で5日間過ごし、群集・見物の1万人が見上げ騒いでいた。
その時期に、
昭和5年陸軍特別大演習(福山市、浅口市ほか)があり、岡山に向かう天皇に汽車の窓から騒ぎを見られたくない関係者は、
男の要求をのんで、天皇が通る前に煙突からおろした。
男は2年後、山下公園で遺体で発見された。警察は「事故死」、世間では「拷問による虐殺」と伝えられる。

・・・

 

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2023年06月17日 | 食べもの

小学校六年生になると、
♪菜の花畠に 入り日薄れ 見わたす山の端 霞ふかし 春風そよふく 空を見れば 夕月かかりて におい淡し ・・の、
「朧月夜」を習っていた。
自分も早く六年生になって「朧月夜」を歌いたい、と思っていた。

先生の説明では、菜の花は「菜種油」にするという話だった。
茂平では一部の田んぼに菜の花を植えていた。
田んぼの裏作で麦はなく、半年寝かす田が多かった。
菜の花とレンゲが咲く田んぼは、子ども心にも田舎の田園風景を彩っていた。
今思うと、菜の花はレンゲと同じように肥料にしていたのだろう。

家の料理に油を使ったものは珍しくはなかったが、
それはキンピラゴボウのように、油を使うというよりも垂らす、
程度の使用量だった。
田舎の農家では、自給自作が基本なので、
お金を出して買う物は、少しずつ、もったいなく、使っていたのだろう。

 

・・・

 

「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行


普段はめったに使うことはなかった。
祭りのサツマイモの天ぷらなどを作る際には購入していた。

 

・・・

「鴨方町史民俗編」 鴨方町 昭和60年発行

食用油

菜種は自給用に栽培し、油屋で絞ってもらった。
ゴマ油は購入したり、ゴマと交換した。

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「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

食用油
昭和20年代までは、庶民は1~2合、油を買ってきて、
ごく少しずつ大事に使ったものである。
ナスビとかタマネギに一滴か二滴落として食べたものである。

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 「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版

菜種
明治末期ごろが最盛期で、以後漸減し昭和50年ごろ消滅した。
笠岡市尾坂道万の水車集落は、備中ソウメンの一産地であるが、水車を利用して菜種の搾油をしているものもあった。
菜種油をとった糟(かす)は肥料にしたり飼料にもなった。

 

・・・

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2023年06月17日 | 食べもの

大相撲全盛期の栃若時代、
大関朝汐(後に横綱朝潮)は、ニワトリを追いかける相撲と呼ばれていた。
農家では庭で飼うニワトリを夕方、小屋に追い込むが、それは子供の仕事(手伝い)で、その姿は朝汐が相手力士の動きをふうじ、土俵際に追い詰める相撲に、よく似ていた。


ニワトリが生んだ卵は、家族の口には入らなかった。
たった日に2個程度の卵だが、それをためては売っていた。

食べるのは、
運動会の弁当にゆで卵を半分に切ったものが入っていた。
遠足のときも半分あった。

一個まるごとほしいもんじゃ。
一個一人で食べてみたいもんじゃ、と思っていた。



その願いは小学校の3年生の頃から、叶えられた。
親が小屋を建て養鶏を始めた。
毎日、傷物の卵が一個二個はでていた。
その売り物にならない卵が家族の口に入った。

念願かなった一個まるごと食べる卵は、いつも「卵ごはん」にして食べた。
今でも「卵ごはん」は大好きな食べ物になっている。

なお両親が始めた養鶏は数年で終わった。
最大時が200羽だった、時代は高度経済成長。
当初の大規模200羽は、あっという間に小規模養鶏、零細養鶏へと化していた。

 

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「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行


鶏を飼っている家が多かったが、
普段は食べることはなく、
売ってもうけにした。
卵はご馳走で滋養のあるものとされ、病人に使われる。
古くなった鶏は料理して肉は野菜や芋と煮物に、
骨は汁物のだしに使ったりした。

 

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矢掛町史


養鶏
戦後養鶏規模が拡大され、
昭和45年では263羽になり、55年では2.016羽と驚異的に規模は拡大した。
逆に飼育農家数は低下の一途をたどった。
昭和48年のオイルショックによる飼料の高騰、卵価の安さは農家を苦しめた。

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