しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

若狭「鯖街道」と備中「とと道」

2023年06月03日 | 食べもの

江戸や明治の時代、京都の人たちが食べる鮮魚は、大阪湾や瀬戸内海でとれたものを、伏見まで海上輸送し、伏見から1里ほど陸送したと思われる。
若狭・鯖街道の陸送は18里の距離。
鯖は瀬戸内でも太平洋でもとれる。”鯖街道”の名称ではあるが、魚の総称だったのだろう。鯖大使という高僧伝説も、魚という意味のようだ。

 

 

(鯖街道・熊川宿 2013.8.2)

 

「日本の風土食探訪」 市川健夫 白水社 2003年発行

鯖街道と鯖の食文化

 

(小浜城跡)

(小浜城跡)

 

鯖街道
江戸時代若狭湾でとれた鯖を一塩して、徹夜で京都まで若狭街道を運んだことからその名がついた。
しかしその荷の中には鯖のみではなく、イカ、鯛、カレイ、ブリなどの魚、
北前船で運ばれてきた昆布や十州塩なども含まれていた。
その中で最も量が多く、京都の人たちに喜ばれる魚が鯖であったことから鯖街道という名が付けられたのである。

(小浜市)

 

 

鯖街道の起点、小浜
若狭湾でとれた鯖やブリは、美浜・小浜・高浜ばかりでなく、丹後の舞鶴や宮津にも水揚げされるから、京都に向かう鯖街道にはいくつかのルートがあった。
最も知名度が高いのが、小浜を起点とする若桜街道であった。

時間を節約するために最短のコースをとった。
急がない荷物は今津から大津へ琵琶湖の水運を用いた。
急を要する鮮魚などは渓谷を走っていた。
海に接することのない京都では生の魚は手に入らなかったので、
鯖を酢でしめた「生ずし」と呼ばれるしめ鯖を食べていたのである。
小浜から京都の玄関である大原まで18里の距離があった。
朝小浜を発つと翌朝の市に間に合ったと言う。

 

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「備中とと道」の魚を食った人

若狭の「鯖街道」と、備中の「とと道」は様子が似ている。
鮮魚を人が運ぶ。
距離は、鯖街道が約70kmでとと道が約60km。
相違点は、「鯖街道」は単独で、まる一日。「とと道」はリレー方式で6時間くらい。

「とと道」は一人40Kg程度の魚量で、
毎日でていたのか、それとも鰆がとれる季節だけだったのか。
運搬人は年間通しだったのか、それは何組が出ていたのか。鮮魚はどのように料理され、誰が食べ、何の目的だったのか。
残念ながら、わからない事が多い。

昭和の中頃までは、漁村や港町に住む人たちでさえ、鮮魚を食べるのは年に1~2度あるかないか。
高額な運搬料が掛かり、ダイヤモンドのような鮮魚を食べていた人は、普段の桁外れの豪華で優雅な生活ぶりまでが気になる。

 

 

(高梁市成羽町吹屋・広兼邸)

 

「寄島町史・第二集」平成三年寄島町役場発行


鮮魚運搬船・仲買船・漁船等によって水揚げされた漁獲物は魚市場によって流通機構にのせられた。
口伝によると、江戸末期に中安倉に魚市場が設けられたのが始まりである。
明治、県南沿岸地方では最も多くの取引高を持っていた。

取引範囲は地元の水揚げの他、東部は淡路島・下津井・塩飽諸島、西部は香川県伊吹島・広島県鞆・田島・横島・走島であり、
市は「せり買い」で行われ、毎日朝市と夜市が開かれ、仲買人の手によって市場で値がつけられた。
せり落された鮮魚は、仲買人から小売人(行商人)により近接の地域に販売された。

商圏は二種類に分けられ、
直接消費者に売る場合は「肩荷」として運ばれ、これは現在の商圏とほとんど変わらない。
一方魚小売商に卸される商圏は、遠く備北地方の新見・高梁・総社などに及び、「奥荷」と称され仲買運搬によって輸送された。
さらに鉄道の開通により樽に氷詰めされて京阪神地方にも送られるようになった。このルートは昭和に縮小されていく。
そして輸送量は増大するが販売市場は狭少となり、高い密度の個別販売が行われていくのである。

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