しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

2023年06月17日 | 食べもの

大相撲全盛期の栃若時代、
大関朝汐(後に横綱朝潮)は、ニワトリを追いかける相撲と呼ばれていた。
農家では庭で飼うニワトリを夕方、小屋に追い込むが、それは子供の仕事(手伝い)で、その姿は朝汐が相手力士の動きをふうじ、土俵際に追い詰める相撲に、よく似ていた。


ニワトリが生んだ卵は、家族の口には入らなかった。
たった日に2個程度の卵だが、それをためては売っていた。

食べるのは、
運動会の弁当にゆで卵を半分に切ったものが入っていた。
遠足のときも半分あった。

一個まるごとほしいもんじゃ。
一個一人で食べてみたいもんじゃ、と思っていた。



その願いは小学校の3年生の頃から、叶えられた。
親が小屋を建て養鶏を始めた。
毎日、傷物の卵が一個二個はでていた。
その売り物にならない卵が家族の口に入った。

念願かなった一個まるごと食べる卵は、いつも「卵ごはん」にして食べた。
今でも「卵ごはん」は大好きな食べ物になっている。

なお両親が始めた養鶏は数年で終わった。
最大時が200羽だった、時代は高度経済成長。
当初の大規模200羽は、あっという間に小規模養鶏、零細養鶏へと化していた。

 

・・・・・

「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行


鶏を飼っている家が多かったが、
普段は食べることはなく、
売ってもうけにした。
卵はご馳走で滋養のあるものとされ、病人に使われる。
古くなった鶏は料理して肉は野菜や芋と煮物に、
骨は汁物のだしに使ったりした。

 

・・・・

矢掛町史


養鶏
戦後養鶏規模が拡大され、
昭和45年では263羽になり、55年では2.016羽と驚異的に規模は拡大した。
逆に飼育農家数は低下の一途をたどった。
昭和48年のオイルショックによる飼料の高騰、卵価の安さは農家を苦しめた。

・・

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 梅干し | トップ |  »

コメントを投稿

食べもの」カテゴリの最新記事