岡山空襲は死者1.700人、
空襲警報が無かったことで、被災者が多かった、といわれている。
しかし、それを言えば
空襲警報が発令されていたなら、
果たして被災者が減っていたか?
それは違うと思う。
すでに当時の日本は、警報が出ても慢性化してして、「鳴っとるのう」の状況であった。
より大きな問題は、
市街地から避難するよう命令せず、(指導するどころか禁止した)
空襲が激化していても市民の避難を許さなかった。
その典型が軍都中の軍都・広島であるが、
岡山も広島も、そのことはまったく触れない。
被災者と空襲時の悲惨な状況のみを報道する。
悲惨な状況をつくりだたのは、
(米軍だけでなく)
”神州不滅””最後は神風が吹く”と
最後まで国民をあおり、指導・報道した国家・為政者である、
と自分は思っている。
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(大戦末期の父・茂平の自宅にて)
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「帝国陸軍 戦場の衣食住」 学習研究社 2002年発行 より転記
下士官の食事
兵営での下士官の食事は、料理の内容と食器は兵と同じものであった。
しかし、下士官は内務班で兵とともに食事をすることはなく、部隊にある「下士官室」と呼ばれる
専用の個室ないし部隊本部に近接する事務室で、兵が運んでくる食事をとった。
また、既婚者や勤務年数の長い下士官は、将校同様に「営外居住」が認められており、朝食と夕食は自宅あるいは下宿で済ませ、昼食のみを部隊でとっていた。
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父は三度目の入営中で、
当時、本土決戦にそなえて岡山の聯隊にいた。
年齢もあり、下士官兵だったので、
たまに帰る茂平の家で「岡山空襲」を知った。
翌日岡山で見た岡山市街地のことは何度か聞いた。
岡山駅が異様な臭いで、まだ半分燃えていたこと。
西川に浮かんだ幾重もの死体、
その死体は老人と幼児がほとんだだったこと。
その時、米軍機が上を飛んていた。
「戦果の確認じゃろうと思った。日本は見ずに発表するが」
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これほどの空襲を受けて後の、
岡山市長の方針が悲しすぎる。(お粗末すぎる)
岡山空襲の後、
火事も津波も空襲も、不幸にも出合会ったならば、・・・とにかく安全なところ、指定した場所まで逃げる。
なら、まだすくえるけれど
岡山市長の、「緊急防空対策」は
各家庭防空要員(男女)は必ず残ること。
バケツ等防火用水は三倍に増やすこと。
まさに”逃げるな、死んでも火を消せ”。
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こうしてみると、
6月29日の「岡山大空襲」は夜であったので、
歴史的な大汚点を残さずに済んだ面がある。
昼、
岡山市国民学校。
焼夷弾の雨。
「空襲だ、逃げろ」
先生・生徒「校長先生、避難先はどこへ?」
校長先生「ワシャ御真影が大切じゃ」
先生・生徒「校長先生、避難先はどこへ?」
校長先生「護らねばならんのは生徒でなく、御真影言うとるじゃろ。」
焼夷弾、
校舎・校長先生・先生・生徒・御真影、みんな燃えてなくなる。
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「岡山教育史」
ご真影の安否
昭和20年になると、米軍機が本土上空に侵入し、日本の空は完全に米軍に制圧された。
空襲化の学校で当時、最も憂慮されたのは、各学校に奉安しているご真影の安否であった。
県では、この日のあることを予想して、6月24日付の岡山県内政部長名で、非常の場合には市内公私立中学校は閑谷中学校へ、
岡山市内の国民学校は御津郡馬屋上国民学校へ奉遷するよう指示していた。
しかし、
準備中に空襲を受け、各学校宿直教員が、猛火の中をそれぞれ近郊の安全な学校へ奉遷した。
生徒は在宅中であり、平素の訓練もあってか比較的被害は少なかった。
幸いに被害を免れた公私立学校は、一時罹災者収容所、臨時病院となったり、官庁、団体、企業等が使用した。
焼失した学校の生徒の多くは、
郡部の縁故を頼って行った。
残った通学可能な生徒を集めて分散授業や青空授業をしたが、
出席したのは全体の一~二割にすぎず授業にはならなかったといわれる。
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