しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

魔の踏切

2019年01月22日 | 暮らし
子供の頃、大門駅の東側の踏切に「踏切小屋」があった。
そこには踏切番よりも、いつも子供が遊ぶのがみえた。
「大門の子はええなあ、踏切小屋で遊べて」とうらやましく思っていた。

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「野々浜むかし語り」野々浜公民館1991年発行 より転記

円寂寺前の「寺の前踏切」に踏切番が置かれていたのは、昭和の初めに山陽線が複線になってから、しばらくしてのことだろう。
線路の南側にあった踏切小屋に踏切番が終日詰めて、汽車が来るたびに遮断機を上げ下げしていた。
本人が駅の宿直室に仮眠に行っている間は、駅の者が来て代わりに上げ下げしていた。
踏切小屋にはよく遊びに行っていたものだ。
あの中へ入りこんじゃあわーわー言ってたし、大きくなっても農協の帰りにあそこへ入って遊んで戻りおった。
踏切番は鋼管が来る前の昭和35.6年頃に廃止になった。

汽車が近づくとチンチン鳴る踏切は、ここらでは大冝に最初にできた。
近所のもんは、来るたびにチンチン言うんじゃやかましいじゃろうなと言い合っていた。

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「よしはま物語」関藤不二男著 昭和48年12月発行 より転記。

魔の踏切
大冝踏切は今から凡そ40年位前魔の踏切と呼ばれていた。
1年に11回の踏切事故を記録したこともあった。
踏切の東側は、今は広いが、昔は茂平屋という大きな造り酒屋があり、
西側には下り線に沿って左に民家があり、右には少し離れて薄荷をしぼる小屋と、それに並んでさらし小屋(麦を硫黄でうむす小屋)があって、どちら側からも見通しの悪い踏切であった。
線路沿いに民家を建てたのでなく、民家の傍を鉄道が通った。
何時の頃か線路の東側にお地蔵さんが祀られてからは、眼に見えて事故も少なくなった。
自動信号機が取り付けられ、後
自動遮断機がついてからは、事故は皆無になった。
昭和48年2月はじめ、忘れたころに飛び込み自殺があった。

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魔の踏切
管理人の記憶では、用之江のアメリカ屋の前の踏切が魔の踏切と呼ばれていた。
低い場所を鉄道が通り、非常に危険な踏切だった。

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霊園碑と菅公寄附者銅板と筆の碑  --吉浜菅原神社

2019年01月22日 | 父の話
吉浜菅原神社には霊園碑と菅公寄附者銅板と筆の碑があったそうだ。
次に訪問の際は、ゆっくりと目で確認してみようと思う。

「よしはま物語」関藤不二男著 昭和48年12月発行より転記する。

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随神門の左側に自然石の霊園碑が建っている。
これは明治25年岡田藩の儒者であった浦池其の選並書であると聞いているが、岩に亀裂を生じ、磨きが悪いためか刻んである文字が判読できない。
この原稿を蔵しておられる人は御教示を賜りたい。
その台座一ぱいに寄附者の名が刻んである。
吉浜の有志50名ばかりと、他町村では、東京を始め岡山、井原、笠岡、有田、西浜等20余名が名を連ねている。

随神門の右側には何かがあったらしい凝った配石をした台座が残っている。
これは菅公1000年祭記念碑の寄附者名簿の銅板が建っていた跡である。


(この筆の青銅の碑は、菅原神社300年記念となっている)
菅公1000年祭の記念碑は、右手の丘の裾に跡が残っている。
筆を形どった誠に立派な碑であった。寄附者名簿と共に昭和18年に金属回収の為国に供出、取り払われ、台石のみが残っている。
景観を損じること甚だしく,淋しい限りである。

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小三の春⑤風邪をひいて卵を喰いたい

2019年01月22日 | 城見小・他校
近所のよりさんは6才年上だったが、よく遊んでくれていた。
よりさんの家で遊んでいる時、
「今鶏が卵を産んでいるから・・・・シー」と声を出すのを禁じられた。
見ると、縁側の下の鶏が身を丸くして生む姿勢を取っていた。
子供なので、日にちが変わるとすぐに忘れ、よりさんからは同じ注意を何度も受けた。

その卵は、一ダース以上たまると農協に出荷入して換金していた。

子供が卵を食べる事はなかった。
卵は売るもので食べるものでなかった。

その卵を食べる事が出来るのは、お祭りや、運動会や、遠足の弁当に入っていた。
しかし、それはフライパンで丸く焼いた卵焼きが何等分かに切られたうちの、一切れだった。

なんとか一人で一個の卵を喰いたいものだと思っていたが、それは風邪をひいて寝込んだ時だけ可能だった。
風邪をひくと、母がおかゆを作り、梅干しと、生卵を一個盆に置いていた。

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