子供の頃、大門駅の東側の踏切に「踏切小屋」があった。
そこには踏切番よりも、いつも子供が遊ぶのがみえた。
「大門の子はええなあ、踏切小屋で遊べて」とうらやましく思っていた。
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「野々浜むかし語り」野々浜公民館1991年発行 より転記
円寂寺前の「寺の前踏切」に踏切番が置かれていたのは、昭和の初めに山陽線が複線になってから、しばらくしてのことだろう。
線路の南側にあった踏切小屋に踏切番が終日詰めて、汽車が来るたびに遮断機を上げ下げしていた。
本人が駅の宿直室に仮眠に行っている間は、駅の者が来て代わりに上げ下げしていた。
踏切小屋にはよく遊びに行っていたものだ。
あの中へ入りこんじゃあわーわー言ってたし、大きくなっても農協の帰りにあそこへ入って遊んで戻りおった。
踏切番は鋼管が来る前の昭和35.6年頃に廃止になった。
汽車が近づくとチンチン鳴る踏切は、ここらでは大冝に最初にできた。
近所のもんは、来るたびにチンチン言うんじゃやかましいじゃろうなと言い合っていた。
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「よしはま物語」関藤不二男著 昭和48年12月発行 より転記。
魔の踏切
大冝踏切は今から凡そ40年位前魔の踏切と呼ばれていた。
1年に11回の踏切事故を記録したこともあった。
踏切の東側は、今は広いが、昔は茂平屋という大きな造り酒屋があり、
西側には下り線に沿って左に民家があり、右には少し離れて薄荷をしぼる小屋と、それに並んでさらし小屋(麦を硫黄でうむす小屋)があって、どちら側からも見通しの悪い踏切であった。
線路沿いに民家を建てたのでなく、民家の傍を鉄道が通った。
何時の頃か線路の東側にお地蔵さんが祀られてからは、眼に見えて事故も少なくなった。
自動信号機が取り付けられ、後
自動遮断機がついてからは、事故は皆無になった。
昭和48年2月はじめ、忘れたころに飛び込み自殺があった。
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魔の踏切
管理人の記憶では、用之江のアメリカ屋の前の踏切が魔の踏切と呼ばれていた。
低い場所を鉄道が通り、非常に危険な踏切だった。
そこには踏切番よりも、いつも子供が遊ぶのがみえた。
「大門の子はええなあ、踏切小屋で遊べて」とうらやましく思っていた。
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「野々浜むかし語り」野々浜公民館1991年発行 より転記
円寂寺前の「寺の前踏切」に踏切番が置かれていたのは、昭和の初めに山陽線が複線になってから、しばらくしてのことだろう。
線路の南側にあった踏切小屋に踏切番が終日詰めて、汽車が来るたびに遮断機を上げ下げしていた。
本人が駅の宿直室に仮眠に行っている間は、駅の者が来て代わりに上げ下げしていた。
踏切小屋にはよく遊びに行っていたものだ。
あの中へ入りこんじゃあわーわー言ってたし、大きくなっても農協の帰りにあそこへ入って遊んで戻りおった。
踏切番は鋼管が来る前の昭和35.6年頃に廃止になった。
汽車が近づくとチンチン鳴る踏切は、ここらでは大冝に最初にできた。
近所のもんは、来るたびにチンチン言うんじゃやかましいじゃろうなと言い合っていた。
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「よしはま物語」関藤不二男著 昭和48年12月発行 より転記。
魔の踏切
大冝踏切は今から凡そ40年位前魔の踏切と呼ばれていた。
1年に11回の踏切事故を記録したこともあった。
踏切の東側は、今は広いが、昔は茂平屋という大きな造り酒屋があり、
西側には下り線に沿って左に民家があり、右には少し離れて薄荷をしぼる小屋と、それに並んでさらし小屋(麦を硫黄でうむす小屋)があって、どちら側からも見通しの悪い踏切であった。
線路沿いに民家を建てたのでなく、民家の傍を鉄道が通った。
何時の頃か線路の東側にお地蔵さんが祀られてからは、眼に見えて事故も少なくなった。
自動信号機が取り付けられ、後
自動遮断機がついてからは、事故は皆無になった。
昭和48年2月はじめ、忘れたころに飛び込み自殺があった。
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魔の踏切
管理人の記憶では、用之江のアメリカ屋の前の踏切が魔の踏切と呼ばれていた。
低い場所を鉄道が通り、非常に危険な踏切だった。