しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

小三の春⑨瘡守神社のインチキ露店

2019年01月25日 | 城見小・他校
大津野村の野々浜に瘡守(かさもり)さんと呼ばれる神社があった。
今もある、場所は山陽本線の大門駅から東へ500m程の線路の北側の丘にある。

その瘡守さんのお祭りは、夜に露店が参道を埋める程に左右に並んでいる。
30円ほどのこずかいを親から貰って、そのお金をしっかりと持って、暗い夜道の峠越えをした。
峠を越すと広島県側になるが、野々浜漁港に近い。そこから北へ田んぼの道や、民家が点在する田舎道を北へ向かう。
山陽線が近くなるとほっとする。
線路の踏切を越えると、お祭りと露天の灯りが煌々と目に飛び込む。

参道には、どの店も子供の興味をそそる商品を並べて待っている。
その中に豪華景品をならべたクジの店があった。
その商品がどうしても欲しくなり、10円出してクジを買った。
クジは5枚あり、その内の1枚が当たりクジ。
最初、5枚のを買ったので確率は20%だったが、ハズレだった。
次に3枚に時に買った、確率は33%だったが、ハズレだった。
最後の10円は、2枚の時に買った。確率は50%だったが、ハズレた。
3回かったクジの当選率は100%を超すが、それでもハズレ。

その後も、他人がするのを(買うのを)見ていたが、5.4.3.2枚、すべてハズレだった。
子供を馬鹿にした露天商だと思った。

帰りの夜道は遠いけど、気持ちの重さも加わり、遠い遠い帰り道だった。


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小三の春⑧父は密造で捕まった

2019年01月25日 | 城見小・他校
葡萄畑ではキャンベルとマスカットを作っていた。
収穫したブドウは、房に付いた白い表面の粉に指が少しでも触れないように、成長の悪い粒を落として、それを等級に分けてから出荷していた。

葡萄の粒は、牛の餌にもせず、大きなバケツに貯めた後、井戸水で汚れを落とし、父は両手の手のひらでもみ返していた。
それが葡萄酒の密造の最初の工程だった。

父の葡萄酒造りは、物心がついた頃にはしていたので、たぶん戦前から、そして父の代の前からも造っていたのだろう。
田舎の自給自足の食べ物・飲み物の一つであると思っていた。

ところが、茂平で葡萄を作っている農家全ての家に税務署がやってきた。
その結果、父も密造の罪で捕まった。

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「台所に敗戦はなかった」魚柄仁之助著 青弓社 2015年発行 より転記

つくりませう!葡萄酒
家の光(昭和7年9月号)にこのような記事が掲載されておりました。

「自家製法」、
収穫期は成熟したものを晴天続きの午後収穫すれば,糖分は多い。・・・
今日の日本の常識でとらえると「密造を勧めているのではないか」でありましょうが、1932年では、合法であったと考えられれる。
葡萄酒が酒税法の仲間入りを果たすのは1940年(昭和15年)のことです。

敗戦からちょうど1年たった「主婦と生活」の8月号には、甘味料として葡萄酒の作り方が掲載されていました。その通り作ればアルコール度数は1パーセントを超える、酒造法でいう「密造」であります。


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「生きてゐる兵隊」

2019年01月25日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
第一回目の芥川賞作家・石川達三は、昭和13年(1938年)1月中央公論派遣で上海に行き、戦場を見聞きし「生きてゐる兵隊」を書いた。
中央公論の昭和13年3月月号に発表された。この雑誌は発売即日に販売禁止になった。
石川達三は裁判で禁固4ヶ月の判決を受けた。
戦後すぐ、昭和20年12月に単行本「生きてゐる兵隊」が河出書房から出版された。

「蒼氓・日陰の村」昭和47年新潮社発行 より転記

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「生きてゐる兵隊」

さすがに無錫の守りは堅く、二日目の戦闘にもついに城門をぬくまでには至らなかった。
西沢連隊はこの日連隊旗手を失った。
弾丸はただ一発で彼の左胸部をつらぬき、担架に乗せられたときにはもう息は絶えていた。
「連隊長殿に、残念ですと、伝えてくれ」そういったのが最後であった。

戦闘は夜を徹して行われ、翌26日の朝になってようやく無錫は攻撃軍の手に陥ちた。
永い戦いに疲れ切った兵は市街の家々を占領し市民たちのベッドにもぐりこんで眠った。

友軍はさらに敗残の兵を追うて常州に向い、西沢連隊は無錫にとどまって三日間の休養をとった。
生き残っている兵が最も女を欲しがるのはこうゆう場合であった。
彼等は大きな歩幅で街の中を歩きまわり、兎を追う犬のようになって女をさがし回った。
彼等は一人々々が帝王の暴君のように誇らかな我儘な気持ちになっていた。
そして街の中で目的を達し得ないときは遠く城外の民家まで出かけて行った。
道徳も法律も反省も人情も一切がその力を失っていた。
そうして、兵は左の小指に銀の指輪をはめて帰って来るのであった。
「どこから貰って来たんだい?」
と戦友に尋ねられると、彼等は笑って答えるのであった。
「死んだ女房の形見だよ」


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小三の春⑦芝居を見に行く

2019年01月25日 | 城見小・他校
「伊豆の踊子」一行のような旅芸人が茂平にも来ていた。

映画はポスターで住民に知らせていたが、芝居はチンドン屋のように鉦や太鼓を鳴らしながら茂平を一周していた。
年に一回か二回、どこから来るのは不明で団長以下男女で4~5名程度だったような気がする。
寝泊りは集会場を利用していた。

興行は茂平集会場に付設の茂平ごらく場で、チャンバラ芝居をしていた。
カツラや刀やお化粧の人を見るのは、この時しかなかった。
芝居よりも顔や衣装の方が子供には面白かった。

興行は2~3日続いた。その後は、どこの村にゆくのか、噂にも聞いたことが無い。
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