しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

福山空襲

2016年07月15日 | 父の話
談・2000.8.6

(福山空襲は)
岡山から、あっちの方が明るう見ようるのう、ようた。


(福山空襲・母の話)

真っ赤になった。
だいぶ近くまで燃えとるゆうのはわかりょうた。


(津之下空襲・母の話)
津之下のはやれんきた感じがした。
ぷつっと降りてきた。。。。
忘れられん。
ありゃあよう忘れられん。


(高松空襲は)
高松の時は(福山より)もっと明る。ぼーと明るうなった。



(岡山空襲は)
奉還町と蕃町は燃えなんだ。
ミッションスクール(清心)があったから燃えなんだようた。



(広島は)
原爆の時は岡山からも応援に行った。



防空壕

防空壕は家ごとに皆ほとった。
こまい(4~5人も)入れん。

(母)どこの家にも掘とった思う。
掘れぇゆうことじゃったけえ。
防空頭巾と上に綿をいれたかけるもんをもっとった。



黒塗りの家

飛行機から白ぉ見えたら攻撃目標になる言わりょうた。
黒ぉ塗ったらわかるまあ、それで
(雑に塗っていったのは?)
うるそう言われるので、しょうことなしに塗っとった。
それで雑にしとる。

せんもんもおった。
罰則はなかった。みんなで気を付けてやりょうた。


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岡山空襲の翌朝

2016年07月15日 | 父の話
談・2003.8.14


男は脚絆を巻いて、西川に浮いとった。
窒息して死んどる。(焼けどや傷はない)
よっけい死んどった。

年寄りの中尉の軍医さんがおったが、(空襲翌日にも)帰ってこなんだ。
それで探しにいった。
そしたら息子といっしょに死んどった。川の中で。
息子は六高から玉野の造船所に挺身隊で行っとった。
若いもんが親を助けようと、一緒に死んどる。
息子だけならどうゆうことはない、逃げる(若者だけの死者はまったくいなかった)。

そこで死体を焼いて弔ようたら飛行機が飛んできた。
撃ってくるかと思った。
見に来た。
アメリカじゃあ嘘じゃあない。(空襲した跡を)確認しにきて、それを発表しようた。

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食糧の供出と配給

2016年07月15日 | 父の話
談・2000.8.6


横流しをせんように、
役場が家分と余りを決め・・・所有地と家族数で、だいたいわかる・・・出すように指導しょうた。
番をして横流し、ヤミへいくものはひっとりつかまようた。怒りょうた。
大江にいるとき何人もつかまえ、没収しょうた。
戦時中にゃあ、そうゆうことばっかりやりょうた。

出せば代りに配給物資がありょうた。
鍬やこ。
地区が供出して、配給は地区へ政府から配給がありょうた。

出すのは米・麦で、他はない。出食だけ。雑穀やこはない。


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