しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

小学生の洋服

2016年07月07日 | 暮らし
母の話・2001.1.1


(母は昭和7年頃、現在の井原市立西江原小学校を卒業)

6年生を卒業する時、(洋)服を着てきた人が2~3人、・・・5~6人おったかなあ。
町ほど洋服は早かった。
ええウチの子。(西江原では)医者をしょうる家や商売して大分限者の人や町長の子供から洋服を着てきだした。

(家に)機織があった。
雨が降ればおばあさんが機を織りょうた。
おばあさんが織った着物を着て行きょうた。
それから柄がついた木綿の布ができだした。きれいじゃなあ思ようた。
式があるときやこ、その木綿のを着て行きょうた。

着物をきて草履を履いて学校にいきょうた。

女学校はもう、洋服で、制服があった。
井原女学校は5年、
他の町には実科女学校ゆうのがあった。増川やこ・・4年。

精研はおばあちゃんの一級下が一期生。
技芸へ2~3年行く人も多かった。

(女学校へ進学しない女子は)
2年、高等科へ行く。
その後、補習科、青年学校へ行く。
男は百姓、
女は、
和裁、洋裁を習ようた。
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産婆さん

2016年07月07日 | 暮らし
母の話・2001.1.1


産婆さん

産婆さんが大流行りじゃった。
産むときは、家のもんが湯をわかしょうた。
隣のhくんまで家で生んだ(昭和35年頃)

産婆さんは城見をぜんぶ持っとった。
陶山にゃあ代用教員しょうたmさんの奥さんが(産婆さんを)しょうた。
小学校の先生をしょうたy先生がお産で亡くなった。
井原では(茂平から嫁いだ)tさんの妹が、3人目を死んで産んじゃった。親子死んじゃった。

よくよくのことがなきゃあ医者を呼びょうらなんだ。
伏越に産婦人科の医者がおった。


ご飯を炊く

朝と晩、
家族が多いとこにゃあ朝昼晩炊きょうたで。
丸山やこ、ぜっぴご飯を炊かなきゃあいけんゆうて帰りょうた。
晩に研いでしかけて、やわしゅうなる。どこにもそうしょうちゃった。

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