しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

笠岡農道空港から送るもの

2016年07月14日 | 父の話

談・2000.8.6

(せっかく出来た空港を利用し、茂平からも何か大阪へ出荷したのか?)


茂平からでなく、笠岡市農協として送っとる。
イチゴが主じゃ。
(今は?)
イチゴぐれいなもんじゃろう。(早い時期の・出始めの)イチジクもあった。
(茂平以外では)バラじゃろう。

こっから、岡山へ
岡山から(大阪の)八尾へ。そっから神戸やこへ。
それじゃから誰も送るまあ。
ぼっこう時間が違うまあ。

自動車の方が早おなった。それで誰も使わんようになった。

東京へも八尾から送りょうた。(けど、トラック便の方が早い・安い)

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茂平の龍王さま(りゅうおうさま・りおうさま)

2016年07月14日 | 父の話
談・2000.8.6


あののう、雨ごいようたんじゃ。
あきらさん方の前に柱があったろう。
門の柱の右っかわへあるんじゃ。
昔はあそこで拝みょうたんじゃ。
(※「あそこ」とは干潮時以外は海の中)
みんなよってから、ところの神主をよんで拝みょうた。
(雨乞いを拝む範囲は)茂平中(もびらじゅう)。
雨が降らん時は、(神頼みが)好きな人が寄って、よう拝みょうた。

この頃は雨がよう降りだしたんか、拝むのは減った(が、行事としては)続いておる。
毎年、するんじゃ。
それ以外に(日照りが多い時)あそこで祈祷する。みんな寄って雨乞いする。

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疎開家族

2016年07月14日 | 父の話

談・2004.7.4


疎開家族

(※終戦後、焼け出された一家が住んでいた話
管理人の、祖母の妹と、その子2人が同居していた)

家が焼けてしもうて、家の裏へ、こまい処へ住んどった。
旦那さんはええ人じゃったが、早う死んどった。

(軍で)姫路へ居ったとき、神戸の長田であのへんゆうのは聞いとった。
戦争で神戸が危ないゆうので(家が焼ける前に)疎開してきた。

一人で疎開しとったが終戦後子供2人が復員(かえって)きた。
狭ぉても母と一緒の場所で寝るゆうて三人で寝とった。



野戦の(安全な)水

水筒へ
池の水をすくうて水筒へいれたり
きたない水もいれたが、けっこう飲めた。
水は飲まなんだらやっていけんので、みんあ気を付け、助けおうて使ようた。
「毒を入れとる」とも言わりょうたから薬で検査だけはしてから飲みょうた。

もう、あわーなこと(戦争)はしちぁらいけん。
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