残量と取り置きの微妙なる不思議

ご覧いただいている写真は、トイレットペーパーである。

しかるに、我が家のトイレにこんな状態のトイレットペーパーが、常設のトイレットペーパーの他に、3本も棚の上に置いてあった。不思議である。いかなる理由なりや?


家内に尋ねると、驚くべき答えが返ってきた。

「客殿の(お客さん用の)トイレの紙がこのくらいの量になると、新しいのと取り替えてるのよ。新しいものに取り替える方法が、ホルダーによって違うでしょ。だから、お年寄りにはわからないことが多いのよ。だから、あわてなくてもいいようにしてるの」だって!

スゴッ!この気配り!
私は、予備のものをホルダーの中に入れておけばOKだろうと思っていたが、なるほど家内の言う通りである。たいしたものである。よって、我が家のトイレでは、これらのトイレットペーパーに関しては、不思議な使い方をせざるを得なくなるのだが、その裏にこんなあたたかい心くばりがあるのなら、いたしかたあるまいて。ぐははは。

こういうのを、微妙(みみょう)と言う。最近では「イマイチ」くらいの意味で使われるが、どの辞書をみても([びみょう]でも]、
①なんとも言えず、素晴らしいこと・さま。おもむき深いこと・さま
とある。

写真の紙の量が「微妙」なのではない、これを取り外して新しいものに変えておく心意気が「微妙」なのである。
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菊の供養になりしや

今日の午後イチは、実家のお寺のご詠歌。
毎秋には一カ月菊花大会が開催される。のこり一週間である。

そこで、今日は父が作った「菊花供養和讃」を錦綾なす菊の大花壇の前で奉詠(ほうえい)とあいなった。毎年恒例である。
一年間の丹精を込めた咲き競う大菊小菊・・・。

「供養」とは「もてなし」という意味である。
今日の和讃は、菊に対する供養となりしや・・・。精一杯唱えた皆さん、ありがとうございました。

そして、今宵は、月に一度の「聲名ライブ」in Chippy。
コラボしてくれるのは、オーストラリアの原住民がつかう、世界最古の管楽器ディジュリドゥや、チベットのシンギングベルや、口琴などの民族楽器で、素敵なサウンドを響かせてくれるpuan(プアン)のお二人。

お仕事帰りに、お酒飲みながら、節付きのお経や、人類が作り出した根源的な響に身をゆだねてみませんか。ミュージックチャージ2000円、ドリンク500円から。
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 火曜日にナニカがおこるのか・・・

 なぜだか、火曜日にはブログが書けないのだな・・・とブログカレンダーを見て思った。

 昨日も火曜日。大した用事があるわけではないのだが、「冷蔵庫通信」の発送に午前中は割いた。近所の郵便局で「50円の記念切手、500枚ありますか?」と数カ月に一度のいつもの質問に、笑顔で「たぶん」と答えてくれる局員さんは有り難い。

 昼食を食べる時間もなくご詠歌に出かけ、帰宅して残りの「冷蔵庫通信」を発送していたら家内が「遅れるわよ」とお出かけ用の服を出してきた。

 19時からの新宿紀伊国屋ホールで行われる「浪曲、講談、義士伝、競演」を鑑賞するためである。血沸き、肉踊る二時間半だった。

 せっかくあまり品の良くない新宿に来たのだからと、家内がここ二カ月言い続けている「ホルモン焼きを食べてみたい」の夢を実現するために、夜の街の彷徨。ついにドリカムとなり、帰宅は午前零時五分前という有り様。あははは。 

 おかげで、今日は朝から写仏の会場準備にオオアラワ。わらわは笑われるいわれはないわい、などと早口言葉を言いながら、マイケルジャクソンをBGMに楽しくやった。

 今日のお手本は「滝見観音」(写真はお手本のものではありません)。静寂を感じさせるお手本である。いい時間が過ごせるに違いない。
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役者と厄払い

 24歳になる次男が夜の犬の散歩につきあってくれて、その道中にこう言った。

「役者は厄払いはしないんだよ。役と厄をかけて、〔役を払う〕に通じるから」だそうだ。
「ほう、面白い。初めて聞いた。今日のブログでいただきます」と父は答えた。

 話、しゃべりのコツは、3分に一回「衝撃、感動、癒し、同調」のいずれかが入るといいという。できれば一分に一回。そうすれば聞き手は飽きることを知らない。

 次男の話は「へぇ」という「衝撃」にあたる。
 感動は「なるほどねぇ」
 癒しは笑いである。
 同調は「そうそう、私もそう思う」のたぐいである。

 やろうと思ってできる芸当ではない。話がうまい人は、結果的にそうなっているということだが、それには普段からみずみずしい感性を張っておくしか方法はない。---仏道修行と少なからず通ずるところがある。

 写真は、厄年とは関係なく、酉の市の熊手。今年は19日が二の酉である。なにかをかき集めたい方は、熊手を買うとよろしい。次男は声優の仕事か役者の仕事が欲しいので、事務所の仲間と出かけるそうだ。
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スピーチの人選

大学の友人が役職についたので、祝賀会に出席することになった。
私は同級生としての発起人の一人だ。

だから、私は祝賀会の閉会の辞を担当することに。

そこで困ったのが、同級生代表のお祝いのスピーチである。

他のスピーチのメンバーを見ると、現在の立場から言って、こいつしかいないだろうと思う友人に、断られるのを覚悟で電話した。彼は、話ベタだからである。

ところが、「いいよ。やるよ」だって。わははは。ビックリするくらい快諾してくれた。
察するに、私の知らぬ間に、かなり場馴れしているふうである。
学生時代の仲間も、30年たつと、皆、逞(たくま)しくなるものだと思った。

うははは、坊さんの「思い込み」の話である。
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懸けて一操(いっそう)、持って二操(にそう)、

今日は明日から四国遍路に行かれるという5人の方々に、ご詠歌のお稽古。

その中で、108個の珠がある念珠の扱いについてお尋ねがあった。

にゃるほど、そういうことはご存じないだろうと思う。

擦る時は、両側の房は両手の甲側(つまり外側)に垂らす。念珠を擦るのは、108の煩悩をすりつぶした、綺麗な心でお願いするという意味である。

では擦らない時はどうするかというと・・・

真言宗では、腕に懸ける時は一操(いっそう)。そのままで懸ける。
手で持つ時は、人指し指にひっかけて二操(にそう)。二重になるということだ。両端の房は手の中に入る。ジャンケンのグーをした時と形は同じである。念珠は人指し指の外側と、手の中から垂れた部分だけということになる。
写真は置いてあるが、これが手で持つ時の二操である(房は180度折れた状態になる)。
そして、置く時には三操にする。房は両方ともワッカになった念珠の上に載せる。

〔わからない方はコメントするがよろしい。明日から写真でアップの用意有り。あははは〕

しかるに、
懸けて一操、持って二操、置いて三操--という具合で覚える。

 ああ、ちなみに「操」という字は違っているかもしれませんが、ワッカにするというほどの意味です。ワッカりましたか?無責任で申し訳ありません。うはははは。
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カレンダーを作ってみた。

朝から、電話が二件かかってくることになっていた。
夕方、クリーニング屋さんへ服を取りに行くことにもなっていた。
昼間、近くの用品店へ家内に頼まれた品を取りに行くことになっていた。

本当は今日まで、高野山と長谷寺と京都の旅行のはずだったが、お葬式ができてキャンセルしたので、一日空いたのだ。

こういう時に、やれることをやっておこうと、檀家さんに差し上げる来年のカレンダーを作ってみた。

ウェブからテンプレートを引っ張ってきて、四苦八苦。パソコンの技がないから結局は昔どおりの切り貼りで、ヘンテコリンなカレンダーになった。
丸まる一年が一枚に書かれているカレンダーはなかなかすっきりしたものがないから、けっこう重宝に使ってくれるらしい。
一昨年までは、福島の仲間たちが私の絵を使って大量に作ってくれたポスターサイズを、私も分けてもらっていたのだが、それでは予算オーバーなのだ。

本当はポスターサイズがいいのだが、あいにく密蔵院にはそんなでかいものを印刷できる機械はないから、A3サイズで勘弁してもらおうと思う。

しかしながら、せめて紙だけはアート紙を使おうと、ウェブで注文してみた。めったにパソコンから品物を買わないので、ドキドキしながら操作したら、明日届くそうだ。わははは。
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「バカタレ」と職人

「うちのジイは、『バカタレ』という言葉を除いたら、ほとんど話として成立しなかったですよ」--今日、お葬式を終えて、火葬場へ向う車の中でのご遺族の話である。

 今日の故人(84歳)は、口の悪さでは天下一品、でも、心のまっ正直さも鹿骨一だと思う。

 法事のあと席で、何度一緒に呑んだことだろう。たしかに「バカタレ」が口癖だった。
「なに言ってるんだ、ばかたれ」
「そんなことをしてみろ、ばかたれ、ただじゃおかなねぇぞ」
「ばかたれ、そんなこと知らないのか」

 あははは、もうほとんど、接尾辞や接頭語の類である。私は慣れるまで、15分かかった覚えがある。。なんの悪気もないのだ。悪気がないどころではなく、いつも周りに笑いを振りまいていた。一緒に呑んでいて、これほど楽しい人を、私は10人は知らない。その一人だった。

 職人だった。お囃子の名人で、地元の子供たちにもその技を継承していた。そして、無類の酒好きだった。いいオヤジさんだった。

 私は「ばかたれ」を、このオヤジさんのように、かーるく使うことはできないけれど、だれか継承してくれないかと思う。

 いづれ、またあの世で楽しいお酒を酌み交わしたいと、心底思う。
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お手の物

 密蔵院では珍しく、お葬式が連続である。昨日がお葬式で、今日がお通夜だ。

 集う方々から聞くと、なんでも、今年は特にこの時期、亡くなる方が多いとか・・・夏の猛暑の影響なのかもしれません、と「死」をどうにか納得する理由を探している姿が素朴でいいと思う。

 90歳のおばあちゃんと、84歳のおじいちゃん。それぞれ屋号を背負っている家だが、この二人には、私が密蔵院へきた26年前から随分お世話になった。
 名残りはつきぬが、仏さまの弟子になってもらうために、しっかり拝む。

 遊びに来ている義理の父が、「戒名をつけるの、大変そうだね」と私が4冊の辞書(漢和辞典、仏教語辞典、戒名辞典、国語辞典)と首っ引きで思案している様子を見て言った。

 密蔵院では年に10件程度のお葬式だから、年間10人の方に、今までのしがらみを離れた仏教徒としての新しい名前をおつけしていることになる。

 漢字の素養ということもあるだろうが、昔から、お坊さんに「赤ちゃん」の名前をつけてもうことは珍しくない。そりゃそうである。名前つけはお手の物なのだから。
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「せっせとはたらく」とは驚いた。

ここ数カ月。お話する最後に「刻鵠類鶩(コクコクルイボク)」のことに触れる。出典は中国の『礼記』である。

書き下せば「鵠(こく)を刻(こく)して鶩(あひる)に類(るい)す」と読む。

白鳥を彫刻しようと彫ってみれば、アヒルくらいのものはできる。つまり素敵な人をめざそうと思えば、それに近づくことはできるというこである。

心に仏を彫ってみよう、そうすれば仏にはならなくても、仏さまっぽいものは彫れるはずだということである。

で、アヒル(鶩)という字の解字を何気なく読んで、笑ってしまった。
[大辞林]にはこうある。
「鳥+(音符)務(せっせとはたらく)の略体」

ぎゃははは。鶩(アヒル)とは「せっせと働く鳥」のことだ。
白鳥のように優雅でなくたって、心の中に、せっせとはたらく鳥が彫れればたいしたものであろうと、ニンマリしている坊主である。

どうでぇ、みなさんも、心に白鳥を彫ろうとしてみちゃいかがですか?

さて、私も、今日もやるべきことにせっせと取り組むことにしよう。ガーガー。がはははは。
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