「死ぬときは一緒」の落とし穴。

私の好きな浪曲「清水次郎長」の中の名物男、遠州、森の石松。
この石松と竹馬の友で兄貴分が小松村の七五郎。

しばらくぶりに会った七五郎が石松に言うセリフ---
「お前と俺は、立つか這うかの時分から仲がいい。生まれた時は別だったが、死ぬ時は一緒にしようと、血酒呑んだ兄弟分だ」

さて、今朝知り合いの方から電話があった。今日祈祷してもらいたいというのだ。
今日は密蔵院で午前中からご詠歌の先生たらの勉強会だったから、普通なら日を改めて欲しいと言いたいところがだ、事情を聞いてそうはいかなくなった。

彼女の年は84歳。二カ月ほど前、同い年のお友達がお茶のみ話でこう言った---
「ねぇ、私たちいく時は一緒がいいわね」
「いく時」が「逝く時」だと気づいた彼女はあわてて言ったそうだ。
「そうね。でも、私の母は100歳まで長生きしたから、私もそのつもりでいるのよ。だから、二人で100歳でも110歳でも長生きしましょうね」
「そうね」
---と、ここまでで話は終わって、先週のこと。
「一緒にいこうね」と言った人が旅行から帰ってきて、旅の疲れもあったのか帰らぬ人に。

お通夜のお焼香も済んだ今週だが、済まないのがあの時交わした口約束。
「逝く時は、一緒に逝こうね」
その言葉が気になって、悲しいよりも、あの世に一緒に連れていかれてしまうのではないかという恐怖心で夜も寝られないという。そして、そうだ、芳彦さんに拝んでもらうおう--というわけだ。

そもそも「死ぬ時は一緒」なんていうセリフは、喧嘩が商売のようなヤクザか、兵隊さんのように、命をかけている人たちのセリフである。
軽々しく言うと、後に残った方の不安は尋常ではなくなるから、そういうことはおっしゃらないほうがよろしい。

今日のご祈祷は、亡き方に「そういうことだから、過日の口約束は御破算に願います」と祈りを込めて、仏さまにお願いした。
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