各宗派の共通性3/3

仏教の教えは数々あれど、「これを外したら仏教とは言えない」という三つの柱、三宝印(さんぼういん)。
言い換えれば、仏教諸派の共通項です。

前回の「諸行無常(しょうぎょうむじょう)」
前々回の「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」

そして、残りしは……ベ、ベン、ベン、ベン
「諸法無我(しょほうむが)」

この場合の「法」は、私たちが認識できるもの。
そして「我」は実体のこと(もちろん私という我もふくめてです我……。ぎゃははは)。

すべてのものに固定されたような実体はないんです、ということ。

諸行無常の大原則も、この諸法無我も、「すべてのものは、原因があって、縁がくわわって、結果になる」という宇宙を貫く大原則から出てくる発想です。

例えていえば、パソコンという実体はないということです。
○+△+□+◇+☆+※=パソコンと呼ぼうという仮の約束みたいなものです。

○や△はCPUやら、HDDやらディスプレイやプラスティックカバーやら電気やらが入ります。

だから、パソコンという固有の実体(我)はないということ。

それを「我」があるように勘違いするクセを人は持っているから厄介になります。

この諸法無我という大原則から、今この瞬間の私という存在も、さまざまな縁の集合体で、「今を幸せにいきている人」にとっては、因や縁が「おかげ」となります。

お坊さんたちが「おかげさま」の話をするのは、こうした意味があってのことなのです。

以上、今日も歯医者さんのドアから出るときに、受付のお嬢さんに「お大事に」と言われながら、彼女の顔を見て「ありがとう」と言えずに、後ろ向きで言ってしまったマダマダなお坊さんの提供でございました。とほほほ。
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