土壇場の、昨日作ったお弁当の運命

一月前に奥さんが亡くなったご主人。
その方が亡くなった。
あの世で、同じ蓮の花の台(うてな)に生まれられたらいいと素朴に思う。

ところがそう呑気に想像しているだけではすまない。

お通夜やお葬式の話は一カ月前にしたばかり。加えて聞く方はほぼ同じ。

こういう状況で、今日何をお話ししようか・・・とギリギリまで考えていた。
衣をつけて、葬儀社の方が「そそろそろよろしいでしょうか」とドアを叩く。

もう考えるのは辞めた。一生懸命おがんでいる間に、きっと何かを思うに違いないと開きなおった。

最近は、三回に二回はそんな調子だ。下手な考え休むに似たりである。
昨日から準備していた話を今日しようとしたって、それは昨日作った弁当を今日食べるようなもので、なんの新鮮さもないのだ。

自分がその場で何を感じたか、それを素直に、喋ればいいというのは昨日も書いた。

明日は起きたら女房に「おはよう。今日もきれいだね」と言おうなんて考えている人の話はどうしたって不自然になるものだ。

その場に何を感じるか、そしてその言葉が人の心にスーッと入っていくか--は何をどう感じるかの訓練(修行)しかなない。毎日が修行だというのはそういうことである。

「悪い頭で考えたってダメ。感じる訓練をしなさい」と、敬愛する村上正行アナにアドバイスされたのは8年前。今は浄土にいる村上正行さんは「ニコッ」と笑っていてくれるだろうか。

 今日食べるお弁当は、今日作ったものにしたほうがいい。ぎゃははは。
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