水鏡(みずかがみ)

法事の始まりをつげる鐘の音。

ゴーンと表現とされるが、この音の中には「叩いた瞬間の音」「ゴーンと響く音」「ウォン、ウォンと唸る音」の三つがあります。

私はいつもそのことをお話してから鐘を打ち、法事を始めます。

そうすると、控室で近況報告話に花が咲いていて、波立っていた心がほんお20秒ほどでスーーと静まって、亡き人への思いを、ころの水鏡に映していただきやすくなるからです。

さて、海がうねり一つなく凪いでいる様子を、講談などではこんな言い方をします。
「水面は、青畳を敷いたようなおだやかさ」
うーんなんとも、言い得て妙です。

一日のうちで、ほんの数分、心をそんな状態にするだけで、"自分"が見えてきます。"自分が向うべき方向性"も見えてくるものです。
仏教が「禅定(ぜんじょう)」=心を静かにすること、を大切にするのはその為です。
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きんぴらゴボウをたべたい時には……

たくさんあることを
「佃煮にできるくらい」と言うことがある。
たとえば、
「お寺は全国にいくつくらいあるんですか?」
「そりゃ-、まあ佃煮にできるくらいあります」
あははは。不思議なもので、そう言うと佃煮が食べたくなる。

そんな表現の一つに、棒状のようなものがあたり一面に存在する時に
「きんぽぴらごぼうを巻き散らかしたような具合」と言うことは……残念ながらまだない。

まだないが、いつか言ってみたいと思う。
「住職さんはたくさんの筆をどうやってしまっているんですか?」
「なに、そこらに放ってあります。きんぴらごぼうを巻き散らかしたような具合でさぁ」
---あははは。いつか言ってみたいものだ。
 そうすれば、きんぴらゴボウが食べたいと思うに違いない。わははは。

 ※今回の話は仏教に関係はありません。無理に関連づけようとすればできるでしょうが、そんな暇はないのです。ぎゃははは。
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各宗派の共通性3/3

仏教の教えは数々あれど、「これを外したら仏教とは言えない」という三つの柱、三宝印(さんぼういん)。
言い換えれば、仏教諸派の共通項です。

前回の「諸行無常(しょうぎょうむじょう)」
前々回の「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」

そして、残りしは……ベ、ベン、ベン、ベン
「諸法無我(しょほうむが)」

この場合の「法」は、私たちが認識できるもの。
そして「我」は実体のこと(もちろん私という我もふくめてです我……。ぎゃははは)。

すべてのものに固定されたような実体はないんです、ということ。

諸行無常の大原則も、この諸法無我も、「すべてのものは、原因があって、縁がくわわって、結果になる」という宇宙を貫く大原則から出てくる発想です。

例えていえば、パソコンという実体はないということです。
○+△+□+◇+☆+※=パソコンと呼ぼうという仮の約束みたいなものです。

○や△はCPUやら、HDDやらディスプレイやプラスティックカバーやら電気やらが入ります。

だから、パソコンという固有の実体(我)はないということ。

それを「我」があるように勘違いするクセを人は持っているから厄介になります。

この諸法無我という大原則から、今この瞬間の私という存在も、さまざまな縁の集合体で、「今を幸せにいきている人」にとっては、因や縁が「おかげ」となります。

お坊さんたちが「おかげさま」の話をするのは、こうした意味があってのことなのです。

以上、今日も歯医者さんのドアから出るときに、受付のお嬢さんに「お大事に」と言われながら、彼女の顔を見て「ありがとう」と言えずに、後ろ向きで言ってしまったマダマダなお坊さんの提供でございました。とほほほ。
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これを外したら仏教じゃないんです2/3

「諸行無常」---「しょぎょうむじょう」と打って変換しても、ちゃんと変換してくれるくらい常識的な言葉。

 すべてのものは、常(つね)ではない。なんとなれば、条件によって刻一刻と変化してやまないからだ。時間も、人の心も、物質もガンガン変化する。まるで、流行みたいに。

 だから、その変化に右往左往せずに、柔軟に対応できるものを自分のなかに作っておきなさい(でも、それさえも変化していくのですが)。
--それが、宇宙を貫く真理でゴザンス。

--ここをしっかりつかまえておこう----これが仏教の三本柱のうちの一つ「諸行無常」ということ。だから何?と思う方は、まだ分かってない。

 だからぁ……「前もそうだったから」とか「変わらないものがある」なんて思うから、苦しんじゃうわけよ……ってことです。「苦しい時」には、私は「諸行無常」を思い出して、納得し、さて心をみがこうかとおもったりします。年に数回ですが。うははは。

 では、明日は「諸法無我」の、柔軟な説明でございます。
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これがないと仏教じゃないんです。1/3

 あまたある、仏教の教え。

 その中で「これを外したら仏教ではない」というのが三つあります。

 諸行無常(しょぎょうむじょう)
 諸法無我(しょほうむが)
 涅槃寂静(ねはんじゃじょう)

 これを称して「三宝印」(さんぼういん)と言います。

 もう一つ「一切皆苦」(いっさいかいく)を加えて「四法印」(しほういん)という場合もあります。

 さて、今日はHNごんべいどうさんのお嬢さんの質問に答えて、「涅槃寂静」から。

 これは〔煩悩を吹き消した心の状態(ニルヴァーナ)は静寂そのものである〕ということ。----つまり、「悟りの境地に達しても心おだやかでないのだ」と言ったら「仏教」ではあーりません、ということです。
 狭義には「生死の苦悩を滅して、心が安らかになること」でもあります。

 そんじゃ、明日は「諸行無常」(しょぎょうむじょう)で、いくジョウ。わははは。

 ※写真は万国共通の「仏教の旗」でござーい。
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「死ぬときは一緒」の落とし穴。

私の好きな浪曲「清水次郎長」の中の名物男、遠州、森の石松。
この石松と竹馬の友で兄貴分が小松村の七五郎。

しばらくぶりに会った七五郎が石松に言うセリフ---
「お前と俺は、立つか這うかの時分から仲がいい。生まれた時は別だったが、死ぬ時は一緒にしようと、血酒呑んだ兄弟分だ」

さて、今朝知り合いの方から電話があった。今日祈祷してもらいたいというのだ。
今日は密蔵院で午前中からご詠歌の先生たらの勉強会だったから、普通なら日を改めて欲しいと言いたいところがだ、事情を聞いてそうはいかなくなった。

彼女の年は84歳。二カ月ほど前、同い年のお友達がお茶のみ話でこう言った---
「ねぇ、私たちいく時は一緒がいいわね」
「いく時」が「逝く時」だと気づいた彼女はあわてて言ったそうだ。
「そうね。でも、私の母は100歳まで長生きしたから、私もそのつもりでいるのよ。だから、二人で100歳でも110歳でも長生きしましょうね」
「そうね」
---と、ここまでで話は終わって、先週のこと。
「一緒にいこうね」と言った人が旅行から帰ってきて、旅の疲れもあったのか帰らぬ人に。

お通夜のお焼香も済んだ今週だが、済まないのがあの時交わした口約束。
「逝く時は、一緒に逝こうね」
その言葉が気になって、悲しいよりも、あの世に一緒に連れていかれてしまうのではないかという恐怖心で夜も寝られないという。そして、そうだ、芳彦さんに拝んでもらうおう--というわけだ。

そもそも「死ぬ時は一緒」なんていうセリフは、喧嘩が商売のようなヤクザか、兵隊さんのように、命をかけている人たちのセリフである。
軽々しく言うと、後に残った方の不安は尋常ではなくなるから、そういうことはおっしゃらないほうがよろしい。

今日のご祈祷は、亡き方に「そういうことだから、過日の口約束は御破算に願います」と祈りを込めて、仏さまにお願いした。
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土壇バワー

 本当は、今日のタイトルは「土壇場パワー」にしたかったのですが、場+パは似ているので、一緒にして「ドタンパワー」にしました。わははは。

 今日の密蔵院のご詠歌には、埼玉県は蕨からのTさんが初参加。
 大会も終わって一息なので、どんな曲をやってもかまわないのですが、直前まで講習曲は未定。
 最初のお勤めの間に、ヒラメイタ……
 これぞ「土壇場ワー」だ。あはは。

 せっかくなので、ご詠歌アラカルトにしました。
 亡き人への鎮魂歌の代表曲--追弔和讃
 ご詠歌の醍醐味--同行(どうぎょう)
 近代の名曲--長谷寺和讃
 巡礼曲の定番--潮音
 歌で学ぶ仏教--十善和讃
 四国遍路の定番曲--常住
 以上の六曲を、歌の淵源や、日本歌謡の特色、そして仏教の教えを含めての二時間。

 ああ、面白かった。土壇場ワーは、なかなかいい力を出してくれると思う。準備していたって、大した力がでないことが多いものだ。

 だから……「明日できることは今日するな」である。わははは。
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