コメント
 
 
 
死について (プラケア)
2010-11-29 20:16:44
死にたくはないのが、誰もだと思うのが普通
でも、避けては通れないのも、どっかではわかっている。
わかっていても、嫌だから、若い時は考えようとはしないが、隠居にそんな意味があったとは驚きです。
隠居=楽隠居程度の認識でした。
そういえば、隠居する時は次に託して身軽になるのはそんな覚悟がいるのでしょうね。
お釈迦様でも、死んだらどうなるの弟子の問いに『捨て置け、死んだらわかる。どうなるかわからんものを心配してもはじまらん。今が大切』が少しわかった気がします(端っこですけどね)
今を大切にします。ありがとうございました。
 
 
 
五十知天命 (南無)
2010-11-29 23:16:37
昔の仏教の遍路や観音巡礼には死ぬ気で回る覚悟が必要でした。巡礼を繰り返し、生命の連続を感じた人もいました。始は巡礼の時だけ大師や観音を感じた人でもそのうち常時観音さんや大師さんが目の前にいると感じられるそうです。僕もその境地を目指したくて修行中…最後には空のみぞ残る境地に辿り着きたいです。
 コメントタイトルの五十知天命は論語の言葉で孔子が五十歳でこの世にはどうしようもない事があると悟ったって意味でこれは愛する人の死とされています。
 
 
 
御礼申し上げます。 (和尚)
2010-11-30 18:18:04
プラケアさん>ワッシのしがねぇ文章のいわんとするところを、ぐーんと広く、丁寧に敷衍していただいてありがとうございます。

南無さん>まっこと、アッパレなコメントです。後ろからあなたのような若者がいてくれるというのは、頼もしいかぎりです。
 
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