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遙かなり、ペーネミュンデ 2011-2012東ドイツ・ポーランド紀行 3、廃墟のエネルギーセンター

2012-01-15 | 旅行
ペーネミュンデ エネルギーセンター跡の廃墟に続く線路とV2実物大モデル


遙かなり、ペーネミュンデ 2011-2012東ドイツ・ポーランド紀行 2、ベルリン発ペーネミュンデからの続き

ペーネミュンデ駅から続く線路跡を辿って行った先に見えた、廃墟の中に立つV2。
その正体を見極めようと、廃墟となった巨大な赤レンガの建物に近づいてみることにした。

線路跡の先は柵で仕切られていて立ち入れないようなので、線路に沿って伸びる小路を歩いて木立の中を進んで行く。



木立の向こうに廃墟が見えているのだが、木や柵が邪魔をしてなかなか建物に近づくことができない。

ペーネミュンデはV2の試験発射が行われていた最中の第二次世界大戦下に連合国空軍による度重なる空爆を受けており、報復兵器の研究開発施設と工場は尽く破壊された。
当時の建築物としては僅かに機械工場とエネルギーセンター(火力発電所)が残るのみだと的川先生の「月をめざした二人の科学者」 には記されている。
だとすると今、僕の目の前の冬枯れた木立の向こうに聳える、あの高い煙突を備えた廃墟はまさにそれだと思われる。

しかし、かつてエネルギーセンターだった建物は、遠い世界大戦の記憶の奥底から21世紀も十数年が経過した現代へと引き戻されるのを拒むかのように、
中々、日本から遥々やって来たロケット好きな旅行者を袂に招き入れてくれない。


どうにも困ったものだと思いつつ、一旦ペーネミュンデ駅まで戻ってみることにした。
今来た小路を引き返し駅前の交差点まで来ると、果たして線路跡を渡った先に博物館の看板が出ているのに気がついた。


看板の先には、これまたV2開発期の当時からの生き残りだと思われる古めかしい赤レンガの建物を利用した博物館があった。
小さな入り口の銘板にはHistorisch-Technisches Museum Peenemünde (The Peenemünde Historical Technical Museum) とある。
直訳すると「ペーネミュンデ歴史技術博物館」だ。的川先生の本に拠ればペーネミュンデには宇宙博物館があり、1999年の夏には「日本の宇宙開発の成果展示会」が開催されたとあるが、恐らくこの歴史技術博物館のことだろう。

早速、歴史技術博物館に入ってみることにする。
チケットを買って、ついでに荷物を預かって貰おうと、拙いドイツ語の挨拶Guten Tag に続けて英語で話しかけるも、中々通じないので難儀する。
的川先生はペーネミュンデに向かう途中で宿泊した町のホテルで白髪紳士のホテルマンから「この歳になるまで日本人を見たことがなかったんです」と言われて呆気に取られたそうだが、博物館の売店でチケットを売っていた若い女性の職員は勿論、生まれて初めて見た日本人旅行者に戸惑っていたせいで言葉が通じなかったという訳ではなく、恐らく単に僕の英語の発音が酷過ぎるせいだろう。
やっと僕が荷物をクロークに置いて行きたがっていることを理解した彼女は、トランクを受け取ると笑顔でチケットを手渡してくれた。

さあ、ペーネミュンデの“宇宙博物館”を見てみよう…と展示室の入口へと進むと、いきなり屋外に出てしまった。
広い敷地の奥からこちらへと続く構築物は、あれは港から石炭を火力発電所の炉へと運ぶコンベアではないだろうか。



そしてその向こうには、先程近づけなくて途方に暮れたあのエネルギーセンターが見えるではないか。
「何だ、あの廃墟は博物館の一部になっていたのか… 最初からこの博物館に来ればよかったんだな」
そう、今ではペーネミュンデでの報復兵器の研究開発に関連する遺構は、すべてペーネミュンデ歴史技術博物館の展示施設となっているようなのだ。
遠目には廃墟に見えたエネルギーセンターも、博物館の入口から見ると外観はきれいに修復されていて現役の工場のようにも見える。だが、空爆で破壊されたのか或いは自然に朽ち果てて崩れ落ちたのか、3本並んだ煙突のひとつだけ他と高さが揃っておらず背が低くなっていた。

エネルギーセンターの手前の敷地の展示物を見ながら歩いて行く。
ペーネミュンデで働いていた労働者(ソ連軍の戦争捕虜か?)に関する記念碑などが並ぶ向こうに、気になる展示物があった。


ベルリン市内でお馴染みの通勤電車・Sバーンの赤とクリームのツートン塗色をまとった鉄道車輌である。
架線のない空に哀しげに張り上げたパンタグラフが目を引く通り、気動車ではなく電車だ。
ペーネミュンデ駅から続いている線路跡に載っており、駅からこちらへ歩いてくる途中で見えたものだ。


英文も用意されていた案内板に依ると、どうやらペーネミュンデで働いていた多くの人達の通勤用に使用されていた車輌らしい。
今では非電化ローカル私鉄UBBのペーネミュンデ支線となっているこの地の鉄道も、往時は電化されており首都圏のSバーンと変わらぬ姿の通勤電車が走っていたということか。




ペーネミュンデ通勤電車の車内には、現役当時の路線図と時刻表が展示されていた。
路線図を見るとかつてこの辺りの路線は一部区間では複線電化されており、各研究施設や工場へと枝分かれした支線が張り巡らされていたらしい。
時刻表を見ても、朝晩の通勤時間帯にかなりの頻度で列車の運行が設定されたダイヤになっている。

通勤電車の車内で投影されていた、ペーネミュンデ空爆と第三帝国降伏以来打ち棄てられスクラップ同然になっていた電車がこの地に戻り、ドイツの鉄道技師マイスターの手で現役当時の姿に蘇るまでを追ったドキュメンタリー映像に思わず見入った。

「ペーネミュンデは、ロケットだけでなく、消え去った鉄道の幻まで秘めた場所だったのか…」



ペーネミュンデの歴史が染み込んだような電車から降りると、
そこにはあのロケットが天空を睨み鎮座していた。






1942年10月3日。
よく晴れていたというペーネミュンデから、一つの美しい流線型をした人工物が空へと翔び立った。
水とエチルアルコールと液体酸素を推進剤として63秒間の燃焼を終えた時、それは地上からの高度84.5キロメートルに到達。
そこは既に地球大気圏ではない。
人のつくった物体が、宇宙に到達した瞬間であった。

だが、やがてその物体は“間違った惑星”への着陸を余儀なくされる。

人類初の宇宙ロケットA4はやがて報復兵器を意味するV2という名で呼ばれるようになり、
遙か宇宙へと飛ぶのではなく、地球にいる人類の頭上へと墜落させられることになるのだ…



人類を宇宙へと導く筈の美しいロケットは何故、おぞましい殺戮の道具となったのか?
それを生み出した男…フォン・ブラウンは何故、悪魔と契約を結んでまで宇宙を目指そうとしたのか?

その謎を解くために、僕はここまで来たのだ。


遙かなり、ペーネミュンデ 2011-2012東ドイツ・ポーランド紀行 4、博物館に続く


5 コメント

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Unknown (Unknown)
2015-02-10 22:45:35
ぺーネミュンデに行かれたのですね。
私は若い時、12歳ごろからフォン・ブラウンに関する本を読み、フォン・ブラウンのロケット開発に関する情熱にあこがれておりました。
NHKの招待で日本に来たことがありましたが、私は抽選に外れ行くことができませんでした。
私と同年代の方がフォン・ブラウン博士に手紙を出して、返事をいただいたことを、当時のNHK子供ニュースで放送されました。
ぺーネミュンデは行ったことはありません。
私の憧れの地です。
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Unknown (天燈茶房亭主mitsuto1976)
2015-02-11 22:12:18
ペーネミュンデは現在では当旅行記のように割りと簡単に行くことが出来ます。
ベルリンからの日帰りも可能だと思いますので、是非一度行かれてみて下さい。
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V2開発その後 (rockcastle)
2015-09-22 13:27:40
今年2月10日にペーネミュンデについてのコメントを投稿しています。また投稿させていただきます。
すでにご存じか、あるいはすでに読まれているかもしれませんが、今月9月15日に「太田出版」から『「ナチ科学者を獲得せよ!アメリカ極秘国家プロジェクト ペーパークリップ作戦」と言う翻訳本が出版されました。
この作戦によりフォン・ブラウンをはじめドイツ人科学技術者たちがアメリカに渡ることになりました。
私の手には今ありますが、少し厚い本ですのでまだ読んでおりませんが、近いうちに読み始めようと思っております。
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rockcastleさん、こんばんは。 (天燈茶房亭主mitsuto1976)
2015-09-22 21:52:23
太田出版というと何やら怪しげですが(笑)ペーパークリップ作戦についての翻訳本とは興味深いですね。
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ペーパークリップ作戦 (rockcastle)
2015-09-23 12:27:28
太田出版というと何やら怪しげですが(笑)
とありましたが、わからない訳けではありません!
著者のアニー・ジェイコブセンの他の本としては「エリア51」が2012年にやはり太田出版から出ています。翻訳者は別の方ですが、「エリア51」と耳にすると、またまた怪しげに思われますか⁉


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