The Peenemünde Historical Technical Museum
←遙かなり、ペーネミュンデ 2011-2012東ドイツ・ポーランド紀行 3、廃墟のエネルギーセンターからの続き
暫しV2…A4を見上げて佇んでいた。
このペーネミュンデの地から、人類が初めて宇宙に送り出したロケット。
「宇宙へ行きたい」という明確な意志を持って生み出された究極の機械。
それは確かに宇宙空間へと到達した。およそ有史以来人類が抱き続けた夢を、遂に現実のものとしたのだ。
その後、宇宙へ行く手段の原点としてV2の技術は引き継がれ、磨き上げられ、人類を直接宇宙へ、月へと送り届けるに至った。
技術の進化はゆっくりと、だが着実に続き、やがて人類の夢を託された探査機たちが更に遠くの宇宙…
火星へ、外惑星へ、彗星へと旅立っていった。
それはすべて、この美しい流線型の姿をしたロケットから始まった。
V2は現在、世界で主流となっている大型液体燃料ロケットの始祖であり、人類を宇宙へと導いた祝福されるべき聖母である。
だが、V2はもう一つの顔を持って生まれた。
栄光に彩られた宇宙ロケットの始祖とは真逆の顔…戦争の狂気が生んだ、おぞましい悪魔の報復兵器。
それもまたV2の偽らざる素顔である。
ベルリン工科大学の学生であった若き日のヴェルナー・フォン・ブラウン。1931年暮れ、彼がベルリンの街角で、ドイツ陸軍のロケット開発プロジェクトの中心人物であったヴァルター・ドルンベルガーたちと出会ったことから歴史は大きく動き始める。
資金不足に喘ぎながら、小さなロケットを製作し打ち上げ実験を行なっていたVfR(ドイツ宇宙旅行協会)の会員であったフォン・ブラウンは、陸軍からの申し出により豊富な資金を得ることの代償として「兵器として」ロケット開発を推進することとなり、それはやがてA4ロケットという形で結実する。
人類最初の宇宙到達を成し遂げてから約2年後の1944年9月、
“報復兵器” を意味するV2という忌むべき名前をナチス宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッペルスより与えられた宇宙ロケットA4はベルギー国内へ、パリへ、ロンドンへと“墜落”を開始する。
宇宙へ… 月へ、火星へ、そしてもっと遠くへ翔ぶ筈のロケットが、
戦争の悪魔の手によって次々に街へと堕ちていく。人の上に堕ちていく。
それはもはや宇宙ロケットではない。人類が初めて手にしてしまった大陸間弾道ミサイルへと変わり果てたのだ。
報復兵器V2の犠牲となった人々は、推定で1万2685人。
そしてそれを上回る数の人々が、敗色漂う戦時下での無理矢理な報復兵器大量生産に従事させられ、劣悪な労働環境下で力尽き死亡したとされる。
こうして数千発ものV2がナチスの、人類を地獄へ道連れにしようとするかのような滅亡の断末魔とともに発射されたのだ。
ドイツの敗戦直前、フォン・ブラウンはV2開発チームのスタッフたちとその家族、そして膨大な量のV2の資料と部品類と共にペーネミュンデを脱出、アメリカ軍に投降した。
戦後、フォン・ブラウンと彼のV2プロジェクトチームはアメリカに渡り、V2を元に宇宙ロケットの技術を更に発展させていく。
一方、ペーネミュンデに残されたV2の遺構を占領したソビエト連邦は、スターリンによる恐るべき粛清を解かれシベリアから戻ったばかりのロケット技術者セルゲイ・コロリョフにV2の調査と復元を命じた。
こうして、ナチスから解放されたV2はアメリカとソビエトという2つの大国の手中に収まり、人類を高みに導く宇宙ロケットであると共に世界を破滅させ得る殺戮兵器でもあるという二面性をそのままに、東西の2つの大国の覇権争いの渦に巻き込まれていく。
やがて始まる冷戦期、V2はフォン・ブラウンとセルゲイ・コロリョフという生涯相まみえることのなかった二人の男と、そしてアメリカとソビエトの熾烈な宇宙開発競争に於いて極限まで進化を遂げていく。
それは最初の「人工の星」を地球周回軌道に乗せ、人を月に送り、宇宙空間に人が定住する場所をつくり上げた。
そして同時に、世界中のいかなる場所も思いのままに攻撃出来る手段を人類に与え、終わりのない恐怖の象徴となった…
すべては、ペーネミュンデから始まった。
この地でV2…A4の開発を始めた時、フォン・ブラウンは自分が造り上げようとしているロケットがやがて、宇宙へと翔び立つことを予見していた筈だ。
しかし、同時にそれが殺戮の為に使われるということも当然ながら承知していただろう。
「宇宙へ行く」という夢のためなら、彼は悪魔に魂を渡すことも躊躇しなかったということか。
だが、果たしてそれ程の覚悟と信念、もはや諦観というべき境地に人は立てるものなのだろうか…
それとも、彼自身が夢に取り憑かれた悪魔となってしまっていたのだろうか?
夢を叶えて宇宙に行く為には、そうまでしなければならなかったのか…?
その謎を解く鍵が、ここペーネミュンデの歴史技術博物館 にはあるかも知れない。
フォン・ブラウン本人が、そして後にセルゲイ・コロリョフも働いていた往時のペーネミュンデの研究開発施設群で唯一現存する機械工場とエネルギーセンター(火力発電所)だった建物が現在、遠目には廃墟のようにも見える一種異様な外観はそのままに内部は歴史を伝える博物館の展示室となっている。
展示室の入口、かつて機械工場の事務所だったと思しき区画の階段ホールに置かれた、2つの物体。
ひとつは無残に潰れている。
その形状から、恐らくV2の金属製のフェアリング(いや、「弾頭」と呼ぶべきか)であると思われる。
最初の展示室で見学者を出迎えるのは、ロケットの黎明期の記憶だ。
ヘルマン・オーベルト。
オーストリア=ハンガリー二重帝国(現ルーマニア)生まれのドイツのロケット工学者。
彼の著作「惑星空間へのロケット」(肖像写真の右上にその本が見える)はドイツにロケットブームを巻き起こし、VfR(ドイツ宇宙旅行協会)設立のきっかけとなり、そして少年時代のフォン・ブラウンにロケットに人生を捧げる決意を促した。
後にはフォン・ブラウンと共にV2開発にも携わることとなる人物である。
アメリカには孤独な先駆者ロバート・ゴダードが、
ソビエトには「ロケット工学の父」コンスタンチン・ツィオルコフスキーがいた。
戦後、両国はフランスと共に戦勝国としてV2の技術を獲得することとなる。
次の展示室では、いよいよペーネミュンデでのロケット開発の幕が上がる。
ペーネミュンデで大きな役割を果たした3人の人物。
ペーネミュンデ実験場設立の立役者、カール・ベッカー、
ドイツ陸軍兵器局ロケット開発責任者ヴァルター・ロベルト・ドルンベルガー、
そしてヴェルナー・フォン・ブラウン。
3人の重要人物と対面した後、いきなりそれは現れた。
展示室の床の木枠の上に無造作に置かれた、奇妙なかたちをした壊れた機械たち。
…まぎれも無く本物の、かつてV2だった部品たちだ。
エンジンの燃焼室上部の燃料噴射ノズルと、翼の一部。
別角度から。
このノズルは、この建物が博物館の展示室となる以前からここに置かれていたことが的川泰宣先生の「月をめざした二人の科学者」の冒頭に書かれている。
的川先生も1990年10月にこの部品たちと対面されていることになる。
燃料噴射ノズルのズームアップ。
水と混合されたエチルアルコールと液体酸素からなる液体燃料はこのノズルから燃焼室内に供給され、25000キログラムの推力を生んだ。
液体燃料を燃焼室へと送り込むターボポンプ。
ターボポンプの駆動に用いる蒸気を発生させる為の酸化水素水タンク。
これらは元は潜水艦用に開発されたものをロケットエンジン用に改良したという。
ロケット噴射ノズルスカート下部に設置される、ロケットの飛翔方向を変えるための排気舵(推力偏向板)。
これらの部品類は皆、現在使用されている液体燃料ロケットの構成部品の基礎となったものである。
ペーネミュンデで実験が繰り返されるロケット。
だがそれは、恐るべき報復兵器の完成までの過程でもあった。
自らの手で着実に進化していくロケットを目の当たりにしながら、フォン・ブラウンは何を思っただろう。
間もなく到来する宇宙旅行時代への期待と憧憬…
そして、同時に繰り広げられるであろう殺戮への戦慄…
或いは…
そして、これがV2の真実である。
暗い小部屋の展示室。
そこにあるのは、宇宙から叩き落されたロケットと人間の鎮魂の空間だった。
ヨーロッパの都市に墜落したV2。戦争の悪魔によってミサイルへと変貌させられたロケットの、あまりにも哀しく惨めな姿。
…僕は思わず言葉を失った。
宇宙が好きで、ロケットが好きな者にとっては目を背けたくなるような世界。泣きたくなるような絶望。
だが、これが現実なのだ。
ロケットは、原罪を背負って生まれたのである。
それでも、宇宙への飛翔を決して諦めることがなかったのもまた、人間の真実の姿だ。
世界初の人工衛星、スプートニク1号。
戦後にソビエトで開発された大陸間弾道ミサイルを転用した宇宙ロケットで、それは打ち上げられた。
現在、世界各国でロケットの打ち上げが行われている。
V2の子供たちが、ようやく本来の目的地…宇宙へと飛翔する日が到来したのだ。
博物館の最後の展示室に掲示された世界地図には、しっかりと日本の2つのロケット射場「Kagoshima(内之浦宇宙空間観測所)」と「Tanegashima(種子島宇宙センター)」の名が刻まれている。
種子島宇宙センターから打ち上げられる液体燃料ロケットH-IIA/H-IIBは、V2の遠い遠い子孫だ。日本から宇宙へ、ロケットはこれからも飛び続ける。きっと、記憶の彼方にペーネミュンデの空を微かに夢見ながら…
博物館の展示室となっている区画以外に、エネルギーセンター時代のまま残されている部屋があった。
がらんとした作業室の中には、どこか教会の大聖堂のような、祈りと誓いの空気が濃厚に漂っているような気がした。
すべての展示を見終えてエネルギーセンターの外に出ると、真冬の北ドイツの短い日はもう暮れかけようとしていた。
エネルギーセンターの裏はそのまま港になっていた。
かつてペーネミュンデの火力発電所を動かすための石炭が輸送船から降ろされていたであろう岸壁には、今は漁船や観光船が停泊している。
この海はペーネの河口、バルト海だ。
かつてフォン・ブラウンやセルゲイ・コロリョフも見たであろう海を紅く染める夕陽を見ながら、僕はここに来るきっかけとなった謎に対する答えを見出そうとしていた。
ロケットは何故、殺戮の道具として生れなければならなかったのか。
フォン・ブラウンは何故、そうまでして宇宙を目指そうとしたのか。
「そうするしかなかった」のだろう、きっと。
ロケットが例え戦争を背景とせず、真に宇宙へ行くだけの為に開発されたとしても、いずれそれは兵器に転用されたであろう。
そしてナチスの報復兵器としてのV2が生まれなければ、人類の宇宙への夢が叶う時が来るのは相当遅れたであろう。或いは、今尚それは実現していなかったかも知れない。
フォン・ブラウンもまた、人間として自分の夢を叶える為にひたすら努力しただけだったのではないか。
悪魔など実はいない、それは考えたくはないが、すべての人間の中に普遍的に存在するものなのではないのか…?
もしそうなら、それは余りにも哀しいことなのだけれど…
…今は、ここまでしか考えられない。
それが真実なのかどうか、それを確かめる術もない。
そして海は、静かな暗闇に包まれようとしていた。
ペーネミュンデを去る前に、もう一度V2に会いたくなった。
V2の隣には、無人有翼飛行爆弾V1も展示されていた。
V2以上に戦果を上げていたというパルスジェットエンジン搭載の飛行爆弾は、今では皮肉にもペーネミュンデのエネルギーセンターを狙い撃ちするかのような姿勢のままで沈黙していた。
V2は何も云わず、夜が訪れようとしている冬空を目指し屹立しているだけだった。
でも、僕はここに来てよかったと思った。
そして、いつかまたここに来たいと思った。
UBB(ウーゼドム海岸鉄道)の列車に乗って、ペーネミュンデを後にする。
さらばペーネミュンデ。
そこは、ロケットの聖地だった。そして、人間の真実を記憶した特別な場所だった。
→遙かなり、ペーネミュンデ 2011-2012東ドイツ・ポーランド紀行 5、国境の港街に続く
技術と人間の複雑な関係。簡単に断罪できないけれど、簡単に許すこともできない。そのあいだで揺れ、苦しむお気持ちが痛いほど伝わってきました。
そして、そのお気持ちに性急な結論を出そうとされず、「聖地」でうけた印象をそのままに記されていることに、感銘をうけました。ありがとうございました。
いずれまた他の旅行記も読ませていただきたいと思います。私も鉄道好きですので。そして、いつか私もペーネミュンデを訪れてみたいと思いました。
ペーネミュンデは宇宙好き・ロケット好きなら一度は訪れて色々と感じて考えてみるべき聖地だと思います。僕もまだ「結論」は出ていませんが(一生かかっても出せないかも、ですが…)、いつかまた再訪するつもりです。
ちなみに…今月末からニューヨークに渡航予定です(笑)
また旅行記書きますので、気長にお付き合い下さいませ~(^^)