
写真:鳥栖駅に到着した最後の「なは」
熊本と京都を結んで走る寝台特急「なは」。
最後に残された九州と関西を結ぶブルートレインとして、長崎発着の「あかつき」と共に手を取り合い夜の山陽路を走り続けた碧い列車たちの、これが最後の旅です。
平成20年3月14日
JRのダイヤ改正を翌日に控えたこの日、寝台特急「なは」の京都行き最終運行列車が熊本駅を出発して、二度と戻らぬ最後の旅に出る。
「なは」の最後の夜を、ファイナルランに乗車して見届けるべく、僕も暮れなずむ熊本駅へと向かった。

乗車案内に「なは」の列車名が表示されるのも、これで見納め。

熊本駅発着ブルートレインの両雄が並んだ乗車位置表示。
明日以降、熊本駅を出発するブルートレインは「はやぶさ」ただひとつとなる。
今夜は「なは」を送るべく「さよなら出発式」が催されることになっているが、「なは」の発車するプラットホームはまだ「なは」が入線していないのに詰め掛けた見送り客でごった返し大変な状況なので、隣のホーム上から遠巻きに見守ることにする。

出発式では「なは」の名にちなんで沖縄の伝統芸能エイサーが披露されたようだが、人が多過ぎて見えず音楽と掛け声しか聞こえない。
やがて「なは」が入線してくる時刻が近づいたので、人並みを縫うようにして乗車位置に移動。今夜は出発式の関係か、通常使用していた5番のりばではなく隣の3番のりばからの発車となるようだ。
20時少し前、熊本車両センターから回送されて来た「なは」編成が入線。たちまち見送り客に取り囲まれる。各車輌のデッキにはJR社員がチケットチェックに立ち、寝台券を持たない者の車内立ち入りを排除するという物々しさ。

今夜は3号車に連結されたB寝台1人用個室「ソロ」に乗車する。
「なは」の編成は車体外板の傷みが酷く、「ソロ」のシンボルマークである一つ星のロゴも欠け落ちているのが痛々しい。


それでも車内は綺麗に整備されている。今夜僕にアサインされた部屋は、ルームナンバーが奇数の1階部屋。
「ソロ」の室内はシングルルームというよりはカプセルホテルに近い狭さだが、有効スペースの平面全てを使った幅1メートルのゆったりベッドとJR九州の専属デザイナー水戸岡鋭治氏の手によるアメニティ。そして何より、個室の宿泊客専用の大きな窓が嬉しい。
今夜はこの部屋で一人、心ゆくまで「なは」との最後の夜を過ごすことになる。

部屋に荷物を置いて、発車時刻までのひと時プラットホームに降りて、熊本駅に据え付けられた「なは」を見て歩く。
編成最後尾に連結された電源車カニ24の、沖縄の青空と熱帯植物を描いた群青と緑のイラストテールマークと紅いテールライトが心に染み入るようだ。
ウチナーンチュとヤマトンチュの想いが、熊本の夜に小さな明かりを灯している。

先頭に立つ深紅の機関車ED76の周辺は、この人だかり。
機関車の先では出発式典が進行中なのだが、この人ごみではとても式典を見る余裕はない。
皆、思い思いに機関車や寝台車を取り巻いて、撮って、「なは」との別れを惜しんでいた。
そろそろ出発時刻だ、部屋に戻ることにする。
そして20時14分。
機関車の長声一発、第32列車寝台特別急行「なは」は熊本駅を出発した。
すぐに「ハイケンスのセレナーデ」のオルゴールが鳴り、車掌氏の挨拶に続いて車内放送が始まる。
「ハイケンス」を聴くと、ブルートレインに乗っているんだなぁ…という実感が湧いてくる。
車内検札も終り、出発の熱気も落ち着いたようなので車内を見て歩くことにする。
今夜の「なは」最終列車の指定券は1ヶ月前の全国発売からわずか数分で全席売り切れたので話題になったが、今のところB寝台1人用個室「ソロ」は空いている部屋もある。この先、博多や小倉での乗車組もあるのだろう。
「ソロ」の部屋の入り口にはアンリ・ルソー風?の絵が飾られている。とにかく、インテリアに凝った車輌なのだ。


4号車に連結されたB寝台2人用個室「デュエット」にもまだ空室があった。ドアが開いていたのでちょっと失礼して、空室の室内を撮影させてもらう。
こちらは落ち着いたインテリアで、豪華な雰囲気。
「一度、この部屋にUSACOと一緒に泊まりたかったなぁ!」

4号車「デュエット」のデッキには、鳥栖駅から先で「あかつき」編成と連結する為のものと思われるスイッチがあった。
このスイッチが使われるのも、今夜が最後。

熊本を出発して約40分、最初の停車駅大牟田で5分停車。後続の特急「リレーつばめ62」号に追い抜かれる。

大牟田駅にも見送りの人達が集まっていたが、さすがに熊本駅程の騒ぎではなくゆっくりと列車を見たり写真を撮ったりできていい感じ。
ここで初めて、今夜の牽引機ED76の顔を真正面から拝み、先日不心得者に1枚盗まれてしまったヘッドマークの残された1枚がしっかりと取り付けられているのを確認する。
「やっぱりヘッドマークは機関車の顔に取り付けられて初めて美しく輝くものだ。盗んで自分のものにしても、虚しいだけだろうに…」

部屋に戻る前に、機関車に連結された客車に赤い反射板が取り付けられているのに気が付いた。
これは客車を回送するための装備で、この編成が最後の「なは」として終着駅京都に到着した後はただちに九州へと回送される予定であることが分かる。そして、九州に戻ってきた客車は、恐らくそのまま廃車解体されるのだろう。
リレーつばめの発車を待って、再び夜の闇の中へ。
暫く、静かな時間が車内に流れる。久留米駅に停車後、長崎からやってくる盟友「あかつき」を待ち受ける鳥栖駅に到着。
鳥栖駅は…見送り客で大混雑!

「なは」と「あかつき」の最後の出会いと旅立ちを見届けようと集まった人達で、鳥栖駅ホームは警察官が出動している程の凄まじい騒ぎに。
到着した「なは」から、「あかつき」との連結に備えて切り離される機関車ED76の周囲は人に取り囲まれ、近づくことも出来ない有様。
そして長崎から「あかつき」が到着、鳥栖駅の興奮も最高潮に!
「あっ!オリジナルのあかつき単独ヘッドマークを付けてる!」

鳥栖駅で、駅構内を埋め尽くすギャラリーに見守られながら「あかつき」は「なは」に併結、一つの列車になった京都行きブルートレインは鳥栖駅を定刻より10分程遅れて発車する。
「多少の遅れなんて、構うものか!いや、誰もがきっと、いつまでも終着駅に着かないで欲しいと思っているんじゃないかな…」
この後も博多駅、小倉駅と、大勢の見送り客でごった返す停車駅を過ぎて、列車はいよいよ九州最後の停車駅である門司に到着。

九州内で「なは」と「あかつき」を牽引した赤い機関車ED76が切り離される。
「あれ?いつの間にかヘッドマークがあかつき単独のものから通常のものに変わってるな。いつ取り替えたんだろ?」

ここで関門トンネル区間専用の交直流電気機関車EF81が連結され、「なは・あかつき」は九州を離れる。もう二度と、関門トンネルをくぐることはない。

10分足らずで関門海峡をくぐり抜けた「なは・あかつき」は本州最初の停車駅下関でEF81を切り離し、東海道山陽本線用の貨物用大型機関車EF66を連結する。

そろそろ日付が変わろうかという時刻だが、多くの乗客と見送り客で下関駅のホームは熱気に包まれていた。
そんな下関駅では、列車を支える鉄道員の小さなドラマが…

下関駅でJR西日本のクルーと交代して列車を降りるJR九州の車掌さん達。
最後の「なは・あかつき」行路、ご苦労様でした。
下関を発車すると、車内も寝静まった。
僕も自分のベッドを整える。でも、このまま寝る気にはならなかった。
今夜は一晩、心ゆくまで最後の夜を味わいたい。このまま夜明けまで「なは」と語らっていたい。そんな気分だった。

ベッドの上に腰を降ろし、部屋の明かりを落として、個室の自分専用の窓から暗い車窓を見る。
「うわー…今夜は星がきれいだなぁ」
星空を見ていると、「なは」との想い出が次々に甦ってきた。
「なは」の車窓の月明かりがきれいで、寝るのが惜しくて結局夜明かししてしまったのは、あれは大学1年の夏休みだったっけ?青春18きっぷの北海道貧乏旅行からの帰り、せめて熊本に着くまでの最終区間では贅沢しようと思って、旅行資金の残金をかき集めて「なは」の寝台券を買ったんだっけ…あの時も「ソロ」個室に乗ったけど、鈍行に比べて余りの快適さに感動したっけ。
その半年後、阪神大震災で壊滅的被害を被った山陽本線で最初に復活した特急が「なは」と「あかつき」だった。
震災復興の大動脈として連日満席で活躍した「なは」のB寝台で仲良くなって、互いに手持ちの文庫本を交換した若い自衛官、震災地から佐世保基地に帰る途中だと言ってた彼は元気にしてるかな…僕と同い年位だったから、今ではすっかり出世して士官になってるかもな…
一度、当時直通運転していた西鹿児島駅まで通しで乗ってやろうと乗り込んだ下り「なは」で乗り合わせた、阪神大震災で家族を失ったというおばさん。
次の朝は同じB寝台の区画に乗り合わせた全員で、東シナ海を見ながら黙祷した。夏の海は涙雨に滲んでいた。

楽しい想い出もある。
平成2年。伯母に連れられて出かけた大阪、「花と緑の博覧会」。
あの時、初めて「なは」に乗ったんだ。まだ乗客も多くて、熊本でB寝台車を2輌増結していた。それでも満席だったな、夜中まで賑やかで騒がしくて寝付けなかったのを憶えている。
いや、寝付けなかったのは憧れのブルートレイン「なは」に乗れて嬉しかったからかな?
何しろ、「花と緑の博覧会」のことは殆ど憶えていないのに、「なは」車中の印象や車窓ははっきりと覚えているんだ。
僕が初めて本物のブルートレインを見たのは、小学3年生の時だから昭和59年か。
「ケイブンシャの鉄道大百科」で写真を見て憧れるだけだったブルートレインを、父に連れられて買い物に出かけた帰りの国鉄熊本駅で生まれて初めて間近に見たんだ。

仕事人間だった父と一緒に出かけること自体、滅多に無いことだが、何でまた帰りが午後8時過ぎにまで遅くなったのか、今となっては記憶も曖昧でよく分からないが、それでも夜の熊本駅に停車していた碧い客車の美しさとそれを見てワクワクしたことははっきりと憶えている。
「お父さん!これ、ブルートレインだよね!わーい、本物のブルートレインだ!」
「ああ、これは大阪行きの『なは』たい。ブラインドの隙間から中ば覗いてみろ、ベッドがあるだろが。これで寝て行けるとたい。」
「僕もブルートレインに乗りたいなあ!ねえお父さん、いつか僕をブルートレインに乗せてよ、寝台車で遠くに行きたいよ!」
父は「そうだな、いつか行けるといいな」とか言ってたが、僕には仕事一筋の父が息子の為に休暇と大枚をはたいてブルートレインに乗せてくれることは、まあまず無いだろうなと薄々気が付いていた。
そんな訳で、「どこかに行きたいなら、何とかして自分で、自力で行くしかない」という真理?を学んだ僕は、気が付くと困窮に耐え仕送りを貯め込んで日本中の鉄道を独り乗り歩く「乗り鉄学生」になり、今では休暇と給料を工面して世界各国を鉄道旅行する「リーマンパッカー」になっていた。

「僕の旅への希求の原点は、『なは』だったんだなぁ…ねえ、僕は、あの夜のブルートレインに乗りたいとずっと思っていたんだよ。
…やっと乗れたね。そうでしょう?」

車窓が明るくなってきた。
朝陽が昇り、また新しい一日が始まる。
第32列車寝台特別急行「なは・あかつき」は、終着駅京都を目指し、ただひた走る。

→ブルートレインは駆け抜けた 平成20年3月15日朝、寝台特急「なは・あかつき」京都駅到着に続きます
小惑星探査機「はやぶさ」情報:提供 JAXA宇宙科学研究本部
天燈茶房TENDANCAFEは日本の小惑星探査機「はやぶさ」を応援しています
「はやぶさ2を実現させよう」勝手にキャンペーン
天燈茶房TENDANCAFEは「はやぶさ2を実現させよう」勝手にキャンペーンを応援しています
COUNTER from 07 NOV 2007
熊本と京都を結んで走る寝台特急「なは」。
最後に残された九州と関西を結ぶブルートレインとして、長崎発着の「あかつき」と共に手を取り合い夜の山陽路を走り続けた碧い列車たちの、これが最後の旅です。
平成20年3月14日
JRのダイヤ改正を翌日に控えたこの日、寝台特急「なは」の京都行き最終運行列車が熊本駅を出発して、二度と戻らぬ最後の旅に出る。
「なは」の最後の夜を、ファイナルランに乗車して見届けるべく、僕も暮れなずむ熊本駅へと向かった。

乗車案内に「なは」の列車名が表示されるのも、これで見納め。

熊本駅発着ブルートレインの両雄が並んだ乗車位置表示。
明日以降、熊本駅を出発するブルートレインは「はやぶさ」ただひとつとなる。
今夜は「なは」を送るべく「さよなら出発式」が催されることになっているが、「なは」の発車するプラットホームはまだ「なは」が入線していないのに詰め掛けた見送り客でごった返し大変な状況なので、隣のホーム上から遠巻きに見守ることにする。

出発式では「なは」の名にちなんで沖縄の伝統芸能エイサーが披露されたようだが、人が多過ぎて見えず音楽と掛け声しか聞こえない。
やがて「なは」が入線してくる時刻が近づいたので、人並みを縫うようにして乗車位置に移動。今夜は出発式の関係か、通常使用していた5番のりばではなく隣の3番のりばからの発車となるようだ。
20時少し前、熊本車両センターから回送されて来た「なは」編成が入線。たちまち見送り客に取り囲まれる。各車輌のデッキにはJR社員がチケットチェックに立ち、寝台券を持たない者の車内立ち入りを排除するという物々しさ。

今夜は3号車に連結されたB寝台1人用個室「ソロ」に乗車する。
「なは」の編成は車体外板の傷みが酷く、「ソロ」のシンボルマークである一つ星のロゴも欠け落ちているのが痛々しい。


それでも車内は綺麗に整備されている。今夜僕にアサインされた部屋は、ルームナンバーが奇数の1階部屋。
「ソロ」の室内はシングルルームというよりはカプセルホテルに近い狭さだが、有効スペースの平面全てを使った幅1メートルのゆったりベッドとJR九州の専属デザイナー水戸岡鋭治氏の手によるアメニティ。そして何より、個室の宿泊客専用の大きな窓が嬉しい。
今夜はこの部屋で一人、心ゆくまで「なは」との最後の夜を過ごすことになる。

部屋に荷物を置いて、発車時刻までのひと時プラットホームに降りて、熊本駅に据え付けられた「なは」を見て歩く。
編成最後尾に連結された電源車カニ24の、沖縄の青空と熱帯植物を描いた群青と緑のイラストテールマークと紅いテールライトが心に染み入るようだ。
ウチナーンチュとヤマトンチュの想いが、熊本の夜に小さな明かりを灯している。

先頭に立つ深紅の機関車ED76の周辺は、この人だかり。
機関車の先では出発式典が進行中なのだが、この人ごみではとても式典を見る余裕はない。
皆、思い思いに機関車や寝台車を取り巻いて、撮って、「なは」との別れを惜しんでいた。
そろそろ出発時刻だ、部屋に戻ることにする。
そして20時14分。
機関車の長声一発、第32列車寝台特別急行「なは」は熊本駅を出発した。
すぐに「ハイケンスのセレナーデ」のオルゴールが鳴り、車掌氏の挨拶に続いて車内放送が始まる。
「ハイケンス」を聴くと、ブルートレインに乗っているんだなぁ…という実感が湧いてくる。
車内検札も終り、出発の熱気も落ち着いたようなので車内を見て歩くことにする。
今夜の「なは」最終列車の指定券は1ヶ月前の全国発売からわずか数分で全席売り切れたので話題になったが、今のところB寝台1人用個室「ソロ」は空いている部屋もある。この先、博多や小倉での乗車組もあるのだろう。
「ソロ」の部屋の入り口にはアンリ・ルソー風?の絵が飾られている。とにかく、インテリアに凝った車輌なのだ。


4号車に連結されたB寝台2人用個室「デュエット」にもまだ空室があった。ドアが開いていたのでちょっと失礼して、空室の室内を撮影させてもらう。
こちらは落ち着いたインテリアで、豪華な雰囲気。
「一度、この部屋にUSACOと一緒に泊まりたかったなぁ!」

4号車「デュエット」のデッキには、鳥栖駅から先で「あかつき」編成と連結する為のものと思われるスイッチがあった。
このスイッチが使われるのも、今夜が最後。

熊本を出発して約40分、最初の停車駅大牟田で5分停車。後続の特急「リレーつばめ62」号に追い抜かれる。

大牟田駅にも見送りの人達が集まっていたが、さすがに熊本駅程の騒ぎではなくゆっくりと列車を見たり写真を撮ったりできていい感じ。
ここで初めて、今夜の牽引機ED76の顔を真正面から拝み、先日不心得者に1枚盗まれてしまったヘッドマークの残された1枚がしっかりと取り付けられているのを確認する。
「やっぱりヘッドマークは機関車の顔に取り付けられて初めて美しく輝くものだ。盗んで自分のものにしても、虚しいだけだろうに…」

部屋に戻る前に、機関車に連結された客車に赤い反射板が取り付けられているのに気が付いた。
これは客車を回送するための装備で、この編成が最後の「なは」として終着駅京都に到着した後はただちに九州へと回送される予定であることが分かる。そして、九州に戻ってきた客車は、恐らくそのまま廃車解体されるのだろう。
リレーつばめの発車を待って、再び夜の闇の中へ。
暫く、静かな時間が車内に流れる。久留米駅に停車後、長崎からやってくる盟友「あかつき」を待ち受ける鳥栖駅に到着。
鳥栖駅は…見送り客で大混雑!

「なは」と「あかつき」の最後の出会いと旅立ちを見届けようと集まった人達で、鳥栖駅ホームは警察官が出動している程の凄まじい騒ぎに。
到着した「なは」から、「あかつき」との連結に備えて切り離される機関車ED76の周囲は人に取り囲まれ、近づくことも出来ない有様。
そして長崎から「あかつき」が到着、鳥栖駅の興奮も最高潮に!
「あっ!オリジナルのあかつき単独ヘッドマークを付けてる!」

鳥栖駅で、駅構内を埋め尽くすギャラリーに見守られながら「あかつき」は「なは」に併結、一つの列車になった京都行きブルートレインは鳥栖駅を定刻より10分程遅れて発車する。
「多少の遅れなんて、構うものか!いや、誰もがきっと、いつまでも終着駅に着かないで欲しいと思っているんじゃないかな…」
この後も博多駅、小倉駅と、大勢の見送り客でごった返す停車駅を過ぎて、列車はいよいよ九州最後の停車駅である門司に到着。

九州内で「なは」と「あかつき」を牽引した赤い機関車ED76が切り離される。
「あれ?いつの間にかヘッドマークがあかつき単独のものから通常のものに変わってるな。いつ取り替えたんだろ?」

ここで関門トンネル区間専用の交直流電気機関車EF81が連結され、「なは・あかつき」は九州を離れる。もう二度と、関門トンネルをくぐることはない。

10分足らずで関門海峡をくぐり抜けた「なは・あかつき」は本州最初の停車駅下関でEF81を切り離し、東海道山陽本線用の貨物用大型機関車EF66を連結する。

そろそろ日付が変わろうかという時刻だが、多くの乗客と見送り客で下関駅のホームは熱気に包まれていた。
そんな下関駅では、列車を支える鉄道員の小さなドラマが…

下関駅でJR西日本のクルーと交代して列車を降りるJR九州の車掌さん達。
最後の「なは・あかつき」行路、ご苦労様でした。
下関を発車すると、車内も寝静まった。
僕も自分のベッドを整える。でも、このまま寝る気にはならなかった。
今夜は一晩、心ゆくまで最後の夜を味わいたい。このまま夜明けまで「なは」と語らっていたい。そんな気分だった。

ベッドの上に腰を降ろし、部屋の明かりを落として、個室の自分専用の窓から暗い車窓を見る。
「うわー…今夜は星がきれいだなぁ」
星空を見ていると、「なは」との想い出が次々に甦ってきた。
「なは」の車窓の月明かりがきれいで、寝るのが惜しくて結局夜明かししてしまったのは、あれは大学1年の夏休みだったっけ?青春18きっぷの北海道貧乏旅行からの帰り、せめて熊本に着くまでの最終区間では贅沢しようと思って、旅行資金の残金をかき集めて「なは」の寝台券を買ったんだっけ…あの時も「ソロ」個室に乗ったけど、鈍行に比べて余りの快適さに感動したっけ。
その半年後、阪神大震災で壊滅的被害を被った山陽本線で最初に復活した特急が「なは」と「あかつき」だった。
震災復興の大動脈として連日満席で活躍した「なは」のB寝台で仲良くなって、互いに手持ちの文庫本を交換した若い自衛官、震災地から佐世保基地に帰る途中だと言ってた彼は元気にしてるかな…僕と同い年位だったから、今ではすっかり出世して士官になってるかもな…
一度、当時直通運転していた西鹿児島駅まで通しで乗ってやろうと乗り込んだ下り「なは」で乗り合わせた、阪神大震災で家族を失ったというおばさん。
次の朝は同じB寝台の区画に乗り合わせた全員で、東シナ海を見ながら黙祷した。夏の海は涙雨に滲んでいた。

楽しい想い出もある。
平成2年。伯母に連れられて出かけた大阪、「花と緑の博覧会」。
あの時、初めて「なは」に乗ったんだ。まだ乗客も多くて、熊本でB寝台車を2輌増結していた。それでも満席だったな、夜中まで賑やかで騒がしくて寝付けなかったのを憶えている。
いや、寝付けなかったのは憧れのブルートレイン「なは」に乗れて嬉しかったからかな?
何しろ、「花と緑の博覧会」のことは殆ど憶えていないのに、「なは」車中の印象や車窓ははっきりと覚えているんだ。
僕が初めて本物のブルートレインを見たのは、小学3年生の時だから昭和59年か。
「ケイブンシャの鉄道大百科」で写真を見て憧れるだけだったブルートレインを、父に連れられて買い物に出かけた帰りの国鉄熊本駅で生まれて初めて間近に見たんだ。

仕事人間だった父と一緒に出かけること自体、滅多に無いことだが、何でまた帰りが午後8時過ぎにまで遅くなったのか、今となっては記憶も曖昧でよく分からないが、それでも夜の熊本駅に停車していた碧い客車の美しさとそれを見てワクワクしたことははっきりと憶えている。
「お父さん!これ、ブルートレインだよね!わーい、本物のブルートレインだ!」
「ああ、これは大阪行きの『なは』たい。ブラインドの隙間から中ば覗いてみろ、ベッドがあるだろが。これで寝て行けるとたい。」
「僕もブルートレインに乗りたいなあ!ねえお父さん、いつか僕をブルートレインに乗せてよ、寝台車で遠くに行きたいよ!」
父は「そうだな、いつか行けるといいな」とか言ってたが、僕には仕事一筋の父が息子の為に休暇と大枚をはたいてブルートレインに乗せてくれることは、まあまず無いだろうなと薄々気が付いていた。
そんな訳で、「どこかに行きたいなら、何とかして自分で、自力で行くしかない」という真理?を学んだ僕は、気が付くと困窮に耐え仕送りを貯め込んで日本中の鉄道を独り乗り歩く「乗り鉄学生」になり、今では休暇と給料を工面して世界各国を鉄道旅行する「リーマンパッカー」になっていた。

「僕の旅への希求の原点は、『なは』だったんだなぁ…ねえ、僕は、あの夜のブルートレインに乗りたいとずっと思っていたんだよ。
…やっと乗れたね。そうでしょう?」

車窓が明るくなってきた。
朝陽が昇り、また新しい一日が始まる。
第32列車寝台特別急行「なは・あかつき」は、終着駅京都を目指し、ただひた走る。

→ブルートレインは駆け抜けた 平成20年3月15日朝、寝台特急「なは・あかつき」京都駅到着に続きます

天燈茶房TENDANCAFEは日本の小惑星探査機「はやぶさ」を応援しています

天燈茶房TENDANCAFEは「はやぶさ2を実現させよう」勝手にキャンペーンを応援しています
COUNTER from 07 NOV 2007
夫の行きと帰りが違う!と言う論は見事に崩れました。
ラストランお疲れ様でした。
昨日夕方のニュース内で、10分ほど「なは」の特集を組んでいました。ラストラン熊本発の車内インタビューを含め、到着までの密着でしたのでmitsuto1976さんが写ってないか思わず探してしまいました^^
インタビューの中でも駅キオスクの方が「『なは』って沖縄の那覇だったんですか?」と言っていましたが、そんな人まで知らないとはさすがに驚きました。
>行きと帰りが違う!と言う論
お、鋭い!実は、そういう列車も実際にあります。「いさぶろう・しんぺい」号と言いまして…
ところで、夕方のニュース内で「なは」特集やってたんですね!うう、見たかった。
でも、テレビクルーなんて乗ってたのかな?気が付かなかった。。。
>駅キオスクの方が「『なは』って沖縄の那覇だったんですか?」と
うむむ…やっぱりひらがなで「なは」だと解かりづらいですからね。漢字で「那覇」号の方が良かったのかも。
最終日の人出はすごかったのですね。フィーバーというよりも、フェーバー(熱病)と言いたくなるような気はします。
「あかつき」車中での急病発症、大変でしたね。その後、体調はどうですか?
ファイナルランということで、ダイヤ改正前夜の熊本駅や他の停車駅、終着の京都駅は大変な騒ぎでした。
「(僕自身も含めて)ここに集まった人たちが以前からもっとブルトレに乗っていたら、廃止にはならなかったかも知れないな…」と考えると複雑でした。