平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




文覚寺(臨済宗天龍寺派)は、幼年期を文覚上人が過ごしたと伝えられ、
寺には上人の守り本尊という十一面観音像を安置しています。
亀岡市内には文覚寺のほかにも文覚ゆかりの伝説をもつ寺があります。

平治の乱後、源義朝の所領であった吉富荘(京都府京北町・八木町)内の
宇都郷は
没官されて平氏の所領となり、藤原成親が伝領しました。成親は宇都郷に
神吉・八代
熊田・志摩・刑部郷を加えて吉富荘として後白河院の法華堂に寄進し、
その後、吉富荘は後白河院から神護寺に寄進されています。
文覚寺には
後村上天皇の綸旨(りんし)一通、正親町天皇の綸旨二通を所蔵していますが、

いずれも高雄神護寺宛のもので神護寺との何らかの関係が考えられます。
亀岡市に文覚の伝承が生まれたのは、後白河院によって神護寺に寄進された吉富荘が
隣接していることや神護寺に近いということ、『源平盛衰記』の記事からと察せられます。



文覚寺を訪ねたのは夏の盛りのこと、境内には見事な蓮の花が咲いていました。

文覚は出家前の名を遠藤盛遠といい、大阪難波の水軍「渡辺党」出身で
上西門院に仕える武士でした。『源平盛衰記』によると「長谷観音への祈願によって
父遠藤左近監茂遠が61歳、母43歳の時に誕生したが、母は文覚を生むと
すぐに亡くなり、父も3歳の時に先立ったため、丹波国保津庄の下司(げし)
春木二郎入道道善に養われて13歳で元服した。幼い頃は養父が持て余すような
悪童であったが、やがて武芸に優れた武士となった。」とあります。
文覚出家への動機は、渡辺渡(わたる)の妻袈裟(けさ)御前に横恋慕し、
誤って袈裟を殺害したためと『源平盛衰記』は語っています。

18、9歳で出家した文覚は熊野・大峰・葛城高野・粉河・金峯山・白山・立山・富士・
伊豆・箱根・信濃の戸隠・出羽の羽黒などあまねく日本国中の修験霊場を訪ね、1
3年にわたって苦行修練を続けました。厳寒の那智では滝に打たれ、流れに流されて
浮いたり沈んだりしてしながら5、6町流れたところを不動明王の使いの
童子に助けられました。しかし「修行の邪魔をしたのは誰だ」と怒鳴る始末。
再び滝壷に戻って荒行を続けますが、ついに息絶えてしまいました。
これを見た不動明王の使い、矜羯羅(こんがら)・制多迦(せいたか)童子が滝の上から
下ってきて文覚をなでさすると生き返ったという。那智山中には48滝があるといいますが、
その中に文覚修行の滝といわれる「文覚滝」があります。
その後、文覚は都に戻り高雄の山奥で修行していました。ある時、高雄の神護寺を訪ね
その荒廃ぶりをみて、何とかして寺を再興しようと決意して勧進して歩きます。
しかし思うようには進みません。ある日、後白河院の法住殿に押しかけますが、
あいにく宴の最中、相手にされなかったため、乱暴を働き伊豆に流罪となります。
頼朝の流罪地蛭ヶ小島に近い韮山東北山中の奈古屋に多聞堂を建てて住みました。
こうして頼朝と運命的な出合いをした文覚はこういって謀反を勧めたという。

「平家には小松殿(重盛)が思慮深くて優れたお方であったが、去年八月、
お亡くなりになった。いずれ平家の世は終る。源平両氏の中で将軍の相をもつた人は
貴方以外いない。早く兵を挙げて天下を取りなさい。」というと頼朝は
「平治の乱で捕われたとき、助命嘆願してくれた池禅尼の菩提を弔い毎日法華経を
読むことしか考えていない。」と答えると「チャンスをものにしないのは天罰をこうむる」
と言って懐から白布に包んだ髑髏を取り出し、「これは貴方の父左馬頭殿(義朝)の
ものです。平治の乱後、獄舎の苔の下に埋もれて弔う人もないのを頼んでもらいうけ、
首にかけて今日まで供養してきたのだと語ります。文覚が見せる髑髏に
頼朝は半信半疑でしたが、非業に倒れた父の無念を偲び涙します。
頼朝は「自分は流人の身、これではどうにもならない。」というと文覚は「そのことなら
簡単なことです。すぐにも都に上りお許しを頂いてまいりましょう。」という。
「そう申す貴方も流人の身、他人の赦免を願うなんて信用できません。」と
答えると「我身の赦免を願い出るなら間違っていましょうが、貴方のことを
お願いするのが何故いけないのか。7、8日もあれば新都福原へ上って
後白河院の院宣をいただいてきます。」といって出て行ってしまいました。

福原に着いた文覚は後白河院の近臣である藤原光能(みつよし)を通して、
この事を後白河院に伝えると早速、平家追討の院宣を下さった。
治承4年6月、当時、後白河院は福原に幽閉中の境遇であり、清盛によって光能も
3つの官職、参議・右兵衛督・皇太后権太夫を全て、治承三年11月に解官されていました。
用事をすませた文覚は院宣を首にかけて、僅か三日で伊豆国へ帰りつきます。
頼朝は手を洗い、口をすすぎ新しい白い狩衣を着て三度拝してそれを開き、
ついに挙兵を決意する。とあり、
一般的には、頼朝が以仁王の令旨で決意し、挙兵したと考えられていますが、
『平家物語』では後白河院の院宣にあったように書かれています。

『源平争乱と平家物語』によると「承安三年(1173)に伊豆に流された文覚は
治承二年(1178)には許されて都に帰っている。平家物語では、治承三年に文覚が
流されたことになっているが事実に反する。後白河法皇の院宣を手に入れ
頼朝にもたらしたとする説については『愚管抄』は否定している。
後白河法皇によって伊豆に流された文覚だが、法皇は崇仏の念がきわめてあつく、
文覚は法皇を敬愛して流罪を許されてのちも、院御所に出入りしていた。
しかし清盛と法皇の対立は激化し、治承三年(1179)十一月清盛は法皇を幽閉した。
仏教の保護者である法皇を幽閉した清盛は文覚にとって仏敵である。
文覚は平家打倒を企て、頼朝に働きかけるために治承4年(1180)ごろ再び伊豆に下り、
後白河院と頼朝の橋渡しをしたとみられる。」とあり、
後白河院の院宣についての具体的な裏づけはないものの、文覚が何か頼朝の心を
動かすような強い働きかけをして、挙兵の決意をうながしたと考えられます。

頼朝は平家討伐後、終世、文覚を敬い一目おいています。
鎌倉には文覚邸跡があり、文覚の恩に報いるために、頼朝は鎌倉材木座に
補陀落寺(文覚開山)を建て、文覚は頼朝の助力で江ノ島に弁財天を勧請し、
頼朝、後白河院の援助を得て、念願の神護寺を再興しています。
文覚と源頼朝、後白河院、藤原光能らとの結びつきは、
文覚が上西門院に仕える武士であったためと思われます。

上西門院は父鳥羽天皇・母待賢門院の皇女として生まれ、母待賢門院の死後、
同母弟後白河天皇の准母(母に准ずる人)として皇后の位を賜り、翌年、院号を
宣下されています。母の遺領を受け継ぎ、そのゆかりの女房や侍との関わりも深く、
頼朝の母の実家である熱田大宮司家の人々が鳥羽法皇、待賢門院、上西門院に仕え、
母も上西門院の女官であったと思われることから、頼朝は女院に仕えて蔵人となりました。
頼朝が佐殿(すけどの)とよばれるのは、官職がもと
右兵衛佐(うひょうえのすけ)であったことに由来します。

院宣をとりもったという藤原光能は安達盛長の甥安達遠元の娘を妻とし、
のちに鎌倉幕府の重職につく大江広元、中原親能(ちかよし)をもうけ、
光能の妹は以仁王の妻となり、真性(四天王寺別当)を生んでいます。
安達盛長は頼朝の乳母比企尼の娘婿であり、流人時代の頼朝の側近として仕え、
在京中、頼朝に都の情報を伝え、有能な人物を紹介しています。山木兼隆襲撃前、
僅かなきっかけをつくって兼隆邸に数日間滞在し、要害の地にあった兼隆邸周囲の
地形の絵図を描いて持ち帰った藤原邦通も安達盛長の推薦を受けて頼朝に仕えていました。
頼朝は北条時政とその絵図を見ながら作戦を練ったという。
鎌倉幕府成立に際し、頼朝は京都から文人を呼び寄せ、彼らの代表として大江広元を
幕府初代政所別当に任命、幕府成立に関わる政治的決定には、広元の助言を聞いて
幕府政権を確立している。大江広元はもと朝廷に仕える官人であり、
五位に叙せられていた。兄弟にあたる中原親能が早くから頼朝に仕えていたこともあり、
招かれて頼朝の重臣となり卓越した政治手腕をふるい幕府創設に貢献しました。

頼朝の挙兵成功のために尽力した下総の豪族千葉常胤の子胤頼が
遠藤左近監持遠に紹介されて上西門院に仕えていたことや胤頼が文覚の
弟子であったこと、文覚が頼朝に挙兵を勧めたことなどが
『吾妻鏡』文治2年(1186)正月3日条にあります。
「千葉胤頼は平家が政権を握っていたとき、京都に大番役として伺候していたが、
平家にへつらうことがなかった。遠藤左近監持遠の推挙で上西門院に仕え、
従五位下に叙せられた。また持遠の仲介で神護寺の文覚上人を師とした。
文覚が伊豆にいたときに頼朝に平家討伐を勧めたことから、平家討伐の兵を挙げられ、
千葉頼胤は父常胤に勧めて頼朝の味方に参上させた。」

文覚の父については、『源平盛衰記』には遠藤左近監茂遠とあり、
『吾妻鏡』には父であるとは明記されていませんが、「胤頼を上西門院に紹介した」と
記されている遠藤左近監持遠が父とも伝えられています。
『吾妻鏡』の遠藤左近監持遠を父とすると、父は文覚3歳の時に先立った。という
『源平盛衰記』の記事は虚構ということになります。
文覚が摂津渡辺党に所属する遠藤盛遠、上西門院の北面の武士であるという点は
一致していますが、父の名は諸本によって茂遠、持遠、為長、或は盛光と異なります。
父の名のことは別にしても、出家以前のことは不明な点が多い。
文覚が頼朝に見せた髑髏は実は偽物でした。

『平家物語・巻12・時忠能登下り』によると、「文治元年(1185)8月22日頼朝は文覚を
片瀬川まで迎えに出た。父義朝殿の首、獄門にかかり後世弔う人もないのを、
義朝に目をかけられていた紺染め職人が、当時の検非違使別当に願って貰いうけ、
「頼朝殿が将来、出世して父上の首を捜されることもあるに違いない。」と東山円覚寺に
納めたおいたものを文覚が聞きだして、義朝の遺骨を首にかけて、
義朝の乳母子鎌田正清の遺骨は弟子の首にかけさせて紺染め職人とともに鎌倉に下った。
頼朝は父や鎌田正清の供養をし、鎌倉勝長寿院に葬った。」と記されています。
紺(こん)染め職人は武具に紺染めが多く用いられたところから、
義朝に召し使われていたと思われます。また紺染め職人は刑場の仕事も請け負っていました。

「円覚寺」は京都市粟田口にかつてあった寺で、清和天皇がここで出家したことから
清和源氏ゆかりの寺となり、保元の乱で処刑された
源為義やその幼子、殉死した妻が葬られていました。
文覚の滝 (飛瀧神社)  

『アクセス』
「文覚寺」京都府亀岡市保津町山ノ坊88 JR亀岡駅下車徒歩20分位
『参考資料』
加治宏江・中原俊章「中世の大阪」松籟社 上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書
 佐藤和夫「水と水軍の日本史」原書房 新潮日本古典集成「平家物語」(中)(下)新潮社
 新定「源平盛衰記」(2)新人物往来社 現代語訳「吾妻鏡」(1)(3)吉川弘文館 
「国史大辞典」吉川弘文館  「亀岡市史」(本文第一巻)亀岡市史編纂委員会 
「京都府の地名」平凡社

 



 

 

 

 



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コメント
 
 
 
文覚商人が首に義朝の髑髏を掛けて…はいかにも嘘くさいから(笑) (yukariko)
2010-12-14 23:38:00
人の目を引く道具立てで驚かせ、関心を引こうとしているようで文覚上人のこの話は好きではありません。
でも、後白河院や近臣達とのかなり深い付き合いがなければ院宣はもとより、藤原光能を初め大江広元、中原親能などの人脈を使う事など出来ないですね。その人脈に千葉胤頼も繋がるのですね。

皆、元をたどれば上西門院をTOPとする人脈で繋がるとは…このように絵解きをして下さると今までバラバラに思えてきた出来事がちゃんと裏で細いけれどしっかりした糸で繋がっていて、この源氏の再興に繋がっているのがよく分かります。

各地の大きなお寺の管主や別当達も政治的な動きに敏感だったでしょうし、各地で修業した文覚は顔も広かったでしょう。
平家と対立した後鳥羽院とその近臣達の意向も各地の有力な豪族たちにもに伝える事が出来たでしょう。
文覚上人はこれらの物語の中では、出家した事によって身分制度の枠を超えて、自由に動ける舞台回しのようなものですね。
 
 
 
どこまでが真実なのか (sakura)
2010-12-15 15:34:04
「平家物語」(巻五)が述べている文覚が義朝のどくろを頼朝に見せて、その無念さを語り挙兵を促したこと、後白河院の近臣藤原光能を通じて院宣をもらい受けたという話は、どこまでが本当なのか創作なのかはわかりません。
しかし文覚が後白河院と頼朝の架け橋になり源氏挙兵に大きな影響を与えたことは間違いないと思われます。文覚がこのような重要な役目を果たすことができたのは、交通、情報の要地渡辺津を拠点とする渡辺党出身であったためといわれています。渡辺津には、遠藤氏が管理していたと伝えられる坐摩(いかすり)神社がありました。
この社は現在、本町に移転されています。以前、yukarikoさんが攝津国一宮として、話題になさっていた神社です。
 
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