平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



義経は平家一門の総帥平宗盛を捕虜として鎌倉に下りましたが、
金洗沢(かねあらいざわ)に関がつくられ、宗盛を受けとりにきた北条時政は、
義経を遮り鎌倉の入口である腰越で沙汰を待つようにと命じました。
仕方なく義経は、腰越の満福寺に入り鎌倉入りの
許可を待ちましたが、頼朝からの連絡はいくら待ってもありません。
もはやこれまでと意を決した義経は、元暦2年(1185)5月24日、
鎌倉幕府の公文所(くもんじょ)別当(
長官)
大江広元に充てて長文の弁明書を書きました。腰越状です。

満福寺のすぐ目の前には、江ノ電の踏切があり、
鎌倉・藤沢間をつなぐレトロな電車が行き交っています。





腰越状は「左衛門少尉義経恐れながら申し上げる主旨は、」で始まり、
「兄の代官のひとりに選ばれ、勅命によって朝敵を滅ぼし、
父祖の会稽の恥をそそぎました。その自分がなぜ咎をこうむり、
勘気をこうむるのか。」そして讒言によって自分の功績が無視され、
兄と対面できないので申し開きもできないと嘆いています。

そして「生まれてまもなく父が非業の死を遂げてから後、
母の懐に抱かれ、大和国宇陀郡(こおり)竜門に逃れて以来、
片時も安堵の日はなく、都を流浪したが、うまくゆかず、
諸国を放浪し土民百姓らに召し使われていた不遇な
青春時代
を送ったことを語り、次いで時期が到来し、
木曽義仲を追討してからこのかた、ある時は、聳え立つ
岩山を駿馬に鞭打って駆け下り(一ノ谷合戦義経の逆落し)、

またある時は、吹き荒れる強風の中、危険を顧みず
果てしない大海に船を漕ぎだす(屋島合戦での渡海)など
平氏滅亡のために命を惜しまず戦い、朝廷より五位尉を賜ったのは
源家にとってこれ以上の名誉はないはずですが、
今の義経はせつなる嘆きにとざされております。」と記しています。

「五位尉」は、五位で左衛門尉ということで、
かつて祖父源為義が務めた官職でした。
その職に自分がついたのは、源家再興という
長年の望みにもかなうことではないか。と言っているのです。
義経は頼朝に無断で任官したことを謝罪せず、
むしろ「五位尉」という重職についたことを
光栄に思っているような書き方です。

頼朝は自分を頂点とする武家社会を作ろうとしていたため、
許可無く官位を受けることを禁止していたのですが、
義経はそれを理解できず、兄の壮大な展望を見通せなかったようです。

最後に「何ら野心をいだかぬ旨を数通の起請文にしたため
差し上げたものの、未だにお許しは頂けていません。
この想いを何とかして兄上に伝えられるよう広大な貴殿の
ご慈悲を賜りたい。」と大江広元に精一杯訴えています。
この手紙を清書したのは武蔵坊弁慶だといわれ、
その下書きが満福寺に残っています。
江戸期の腰越状の版木もあり、江戸時代に刷り物が
参詣者に配られたと考えられます。

『平家物語』『吾妻鏡』元暦2年(1185)5月24日条、
『義経記』にも、ほぼ同文のものが載っていますが、
「腰越状」の語句に後世の書簡文体が見えることなどから、
真偽を疑問視され、後世の偽作かともいわれています。

腰越状によると、義経の伝記上よく知られた鞍馬入りや
若き日、平泉の藤原秀衡のもとに身を寄せたことは記されず、
土民・百姓に使われた苦労が語られていることなど、
注目すべきことではなかろうか。
義経伝の一消息を見せているかも知れず、
一概に後の捏造と極めつけられない面もある。
(新潮社『平家物語(下)』第百十四句腰越、頭注)

また富倉徳次郎氏のご考察に依ると、
義経が嘆願書を提出したことは事実であり、その内容も
この腰越状に近いものだったが、現存のものは
後の創作とするのが事実に近いであろうとされています。

伊藤一美氏は「大江広元が義経の嘆願書を
同氏の文倉に残していた可能性は高く、『吾妻鏡』編纂時に
それを史料として提供したのではないか」と推測されています。
(『義経とその時代』2章「腰越状が語る義経」


山門傍の文学案内板   源義経と腰越
 鎌倉時代前期の武将、源義経は、幼名牛若丸、のちに九郎判官称した。
父は源義朝、母は常盤。源頼朝の異母弟にあたる。
治承4年(1180)兄頼朝の挙兵に参じ、元暦元年(1184)兄源範頼とともに
源義仲を討ち入洛し、次いで摂津一ノ谷で、平氏を破った。
帰洛後、洛中の警備にあたり、後白河法皇の信任を得、
頼朝の許可なく検非違使・左衛門少尉となったため怒りを買い、
平氏追討の任を解かれた。文治元年(1185)再び平氏追討に起用され、
讃岐屋島、長門壇の浦に平氏を壊滅させた。 
しかし、頼朝との不和が深まり、補虜の平宗盛父子を伴って
鎌倉に下向したものの、鎌倉入りを拒否され、腰越に逗留。
この時、頼朝の勘気を晴らすため、大江広元に
とりなしを依頼する手紙(腰越状)を送った。

 「平家物語」(巻第十二 腰越)には次のように記されている。
 さればにや、去んぬる夏のころ、平家の生捕どもあひ具して、
関東へ下向せられけるとき、腰越に関を据ゑて、
鎌倉へは入れらるまじきにてありしかば、判官、本意なきことに思ひて、
「少しもおろかに思ひたてまつらざる」よし、起請文書きて、
参らせられけれども、用ゐられざれば、判官力におよばず。 

その申し状に日く、
 源義経、恐れながら申し上げ候ふ意趣は、
御代官のそのひとつに選ばれ、勅宣の御使として朝敵を傾け、
累代の弓矢の芸をあらはし、会稽の恥辱をきよむ。(略)
(引用文献 新潮日本古典集成 昭和五十六年)
 しかし、頼朝の勘気は解けず、かえって義経への迫害が続いた。
義経の没後、数奇な運命と悲劇から多くの英雄伝説が生まれた。
「義経記」や「平家物語」にも著され、さらに能、歌舞伎などや
作品にもなり、現在でも「判官もの」 として親しまれている。

 「中世には鎌倉と京を結ぶ街道筋のうち、
腰越は鎌倉~大磯間に設けられた宿駅で、西の門戸であった。
義経はここ満福寺に逗留したと伝えられている。」

詳細は鎌倉文学館(長谷1-5-3・電話23-3911)にお尋ねください。
平成八年二月 鎌倉教育委員会 鎌倉文学館


 山門を入るとすぐ右手に「義経宿陣之趾」の碑が建っています。

碑文  「文治元年(皇紀一八四五)五月
源義経朝敵ヲ平ラゲ降将前内府平宗盛ヲ捕虜トシテ相具シ凱旋セシニ
頼朝ノ不審ヲ蒙リ鎌倉ニ入ルコトヲ許サレズ腰越ノ驛ニ滞在シ
欝憤ノ餘因幡前司大江廣元ニ付シテ一通ノ款状ヲ呈セシコト 
東鏡ニ見テ世ニ言フ腰越状ハ即チコレニシテ
其ノ下書ト傳ヘラルルモノ満福寺ニ存ス
昭和十六年三月建 鎌倉市青年團」

大意「文治元年(1185)5月
源義経は朝敵だった平家を滅ぼし、降伏した前内大臣の
平宗盛を捕虜として引き連れ鎌倉に凱旋したが、頼朝の不審を蒙り、
鎌倉に入ることを許されなかったため、腰越駅に滞在し、
その鬱憤のあまり、因幡前司大江広元に一通の嘆願状として差し出した。
そのことが吾妻鏡に書いてあり、世にいう腰越状はこのことである。
その下書きと伝えられるものが満福寺に存在する。
昭和16年3月建 鎌倉市青年団」
腰越状ゆかりの満福寺(1)義経の生涯を描いた襖絵  
『アクセス』
「満福寺」神奈川県鎌倉市腰越2丁目4-8
江ノ電「腰越駅」から徒歩約5分 無料駐車場があります。
拝観時間9時00分~17時00分
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年 
神谷道倫「深く歩く鎌倉史跡散策(下)」かまくら春秋社、平成24年
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
 前川佳代「源義経と壇ノ浦」吉川弘文館、2015年
大三輪龍彦・関幸彦他
義経とその時代」山川出版社、2005年

 

 

 



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