平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



鎌倉市のバス停「元八幡」向かい側にある路地奥に
元八幡とも由比若宮(国史跡)ともよばれる社があります。
源頼義は前九年合戦に出陣する際、源氏の氏神である
石清水八幡宮(京都府八幡市)に戦勝を祈願しました。
その願いがかなえられたので、康平6年(1063)8月、
鎌倉の由比(ゆい)郷に石清水(いわしみず)八幡宮を勧請し、
社殿を建立したのが由比(ゆい)若宮の始まりです。

次いでその子義家は「石清水八幡宮」の神前で元服して
「八幡太郎義家」と名のり、後三年合戦で奥州へ出陣する途中に
由比若宮に参詣して社殿を修理したと伝えています。

治承4年(1180)鎌倉入りした頼朝が由比若宮を
小林郷の北山(現在地)に移し、造営した社を鶴岡八幡宮といい、
以後、この社は元八幡とよぶようになりました。
頼義から数えて百数十年後のことです。
遷座後もこの地で社壇の祭祀は続けられ尊崇されました。
現在も鶴岡八幡宮の境外(けいがい)末社として存続し、
国史跡となっています。



元鶴岡八幡宮と刻まれています。



源義家公旗立の松(切株)


 
 鳥居の右脇には、芥川龍之介旧居跡の案内板があります。
新婚早々の龍之介は、大正7年3月から翌年4月まで
この社近くの小山荘に住んでいました。


文学案内板 元八幡横の芥川龍之介旧居跡
元八幡

この地は、傍の史跡指導標「元八幡」で紹介されているように、
元八幡と称され、
史跡に指定されている。

芥川龍之介旧居跡
東側のバス通りから、この元八幡に来る道の北側の一画は、
大正時代には小山別荘と呼ばれ、敷地内には別棟の広い家があり、
ここを借りて、小説家芥川龍之介が住んだ。

芥川(1892-1927)は、明治二十五年東京生まれ、
大正五年七月に
東京帝国大学英文科を卒業した。
同年横須賀の海軍機関学校の嘱託英語教官となり、

十一月には鎌倉由比ヶ浜に下宿し、横須賀に通うかたわら創作に励んだ。
同六月に横須賀へ移ったが、翌七年二月には塚本文子と結婚し、
三月にこの小山別荘内に
新所帯を持った。
間数は八畳二間その他三部屋に湯殿と台所という独立家屋で、

庭に池があり、大きな芭蕉が五六本生えていた。
大正八年に大阪毎日新聞社社員となり、創作に専念することになったので、
四月に田端の実家に帰ったが、芥川はこの頃のことを、
絶筆となった
「或阿呆の一生」の中で、次のように書いている。
     
 十五 彼等

彼等は平和に生活した。大きい芭蕉の葉の広がったかげに
彼等の家は東京から
汽車でもたっぷり一時間かかる或海岸の町にあったから。

詳細は鎌倉文学館(長谷一―五―三・電話二三―三九一一)にお尋ねください。
平成四年十一月 鎌倉市教育委員会 鎌倉文学館」(現地案内板より)
鶴岡八幡宮写真紀行  
『アクセス』
「元八幡・由比若宮」鎌倉市材木座1丁目
7

鎌倉駅より九品寺循環バス「元八幡」下車すぐ  または鎌倉駅より徒歩20分位
『参考資料』

「神奈川県の歴史散歩」(下)山川出版社 奥富敬之「源頼朝のすべて」新人物往来社

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


« 頼朝は旗揚げ... 文覚寺 »
 
コメント
 
 
 
父祖伝来の地! (yukariko)
2010-12-07 21:47:49
今と違う時代、一番大事なのは氏・一族・血統だと思いますが、ご祭神とも繋がるような太古より連綿と続いている一族に氏神としてのご加護をと神に願ったのは当然のことで、霊験あらたかだった石清水八幡を本拠地に勧請してますます尊崇したのは当然ですし、源氏にとっては誇らしい事だったでしょうね。
北条政子は源氏が勢力を拡大しる発端となった平直方の子孫として頼朝とも繋がっていたのですね。

20年の流人生活、旗揚げ戦の敗戦で千葉まで逃げたにもかかわらず、源氏の棟梁として名をはせた頼義、八幡太郎義家以来の父祖の地に大軍を率いて帰ってきた頼朝は感無量だった事でしょう。

本拠地の館をその鎌倉に構え、幕府を開こうという構想が具体的になったのはいつの頃なのでしょうか?具体的な肉付けは後にしてもずっと彼の胸で温められていたのでしょうね。
 
 
 
長いお返事になってしまいました (sakura)
2010-12-09 17:02:09
頼朝は平家追討を呼びかける以仁王の令旨を治承4年4月28日に北条館で受け取っていますが、動いていません。この約一ヶ月後、頼政・以仁王が戦死してしまいます。伊豆国の知行国主は源頼政、その子仲綱が伊豆守でしたが、頼政の死により平時忠が知行国主となって山木兼隆を目代に任じています。頼朝への監視は厳しくなったはずです。
6月19日、京都の三善康信の使者が頼朝のもとに到着し、以仁王の挙兵が失敗したことを告げ、その令旨を受け取った源氏は全て追討されるとの決定が下されたことを伝え、頼朝に奥州に逃げるよう勧めます。
頼朝が動いたのは6月24日、吾妻鏡によれば「三善康信の情報により逆に平氏を追討しようと考え、安達盛長を使者にたて源氏累代の御家人に挙兵を呼びかけた。」と書かれています。追討されるのは間違いないと判断した頼朝がせっぱ詰まって挙兵を決心したというのが真相のようです。したがって挙兵当初から幕府をつくるという構想はなかったと思います。
6月27日、三浦義澄と千葉胤頼が京都大番役を終えて帰る途上、頼朝のもとに立ち寄っています。ここでかなり具体的に話が詰められたと思われます。
挙兵するといっても20年間も流人だった頼朝には兵がありません。政子の父北条時政が一族を挙げて頼朝に味方しますが、この時、北条氏はまだ小豪族で力不足、頼りになりません。頼朝が一番頼りにしたのは、三浦一族だったはずです。三浦氏は早くから頼朝の挙兵に呼応しています。石橋山で敗北した際、三浦氏の勢力が及んでいた安房に逃れるということも予め三浦氏と連絡をとって決められていたと思われます。
鎌倉は三方が山に囲まれ、一方が海に開けた地形であるため、防御しやすく、攻めやすい理想的な地形であるといわれています。また頼義以来の本拠地でもありますが、頼朝が鎌倉に幕府を開いた大きな理由は、三浦氏の本拠地三浦半島に近い所にあることだと思います。何かがあればすぐに駆けつけてくれます。
房総半島から鎌倉入りを果たした頼朝は富士川に出陣、勝利すると直に上洛を命じます。しかし三浦義澄、千葉常胤、上総広常らに諌められ、鎌倉に腰をすえて東国平定に専念します。頼朝が鎌倉に幕府をつくろうとしたのは、よくわかりませんが、治承4年10月大軍を率いて鎌倉に入った頃か同月、諌められて上洛を諦めた頃ではないでしょうか。
頼朝は妻政子の実家の先祖から自分の先祖がもらった土地に幕府を開いたことになりますが、さらに下ると鎌倉幕府は北条氏のものになってしまいます。
細かい字の上長文、読みにくかったと思います。すみませんでした。
 
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